【勅祭社】

2016年4月20日 (水)

明治神宮

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めいじじんぐう。東京都渋谷区にある神社。

勅祭社。旧官幣大社。

明治神宮は第二次世界大戦後、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、平成16年(2004)に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。しかし、平成22年(2010)8月23日、再び神社本庁は明治神宮の被包括関係を設定した。

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ご祭神は、明治天皇と昭憲皇太后を祀る。

創建の経緯は以下のとおりである。

明治45年(1912)に明治天皇が崩御すると京都の伏見桃山陵に葬られた。天皇の崩御は立憲君主国家として初の君主の大葬であったが、その死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念)のための行事が計画された。

その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館などさまざまな案があったという)、一方、天皇を崇敬する東京市民からは東京に神宮を建設したいという運動が起こった。

大正3年(1914)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、大正4年(1915)5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。

明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。

造営は大正4年(1915)から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した。

鎮座祭は、大正9年(1920)11月2日に行われ、皇室からは大正天皇の名代として皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が行啓した。初代宮司は公爵一条実輝。

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面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。

また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。

22万坪(約73ha)に及ぶ広大な神域は江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640)より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていた。この土地が井伊家から政府に対して献上され、明治7年(1874)に買い上げられて南豊島御料地となった。

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神宮本殿は大東亜戦争末期の昭和20年(1945)4月、アメリカ軍による空襲によって焼失した。その後、全国から復興資金が寄せられ、仮殿が建設されて翌昭和21年(1946)5月に還座祭が行われた。現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもので、還座祭は昭和33年(1958)10月31日に行われた。

境内の旧御苑入口付近にはかつて、代々木の地名の起源ともなったモミの巨木「代々木」があったが、この名木も空襲の折、高射砲によって撃墜されたアメリカ軍機B29の直撃を受けて焼失した。

昭和41年(1966)7月22日に大鳥居が落雷によって破損したため、新たな鳥居を昭和50年(1975)12月23日に建立。2代目の大鳥居も初代同様、台湾の阿里山連峰の大檜が用いられた。なお、落雷した鳥居は氷川神社の二の鳥居として翌年移設された。

明治神宮は、初詣では大晦日から正月三が日の間で300万人前後の参拝者を集めることで知られ、その数は日本一である。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

明治神宮御苑

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明治神宮御苑を散策した。

隔雲亭。

花を見るには季節としては中途半端かもしれないが、ツツジ、ヤマブキが咲いていた。

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南池。

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清正井。

水は飲まないよう注意書きがあった。

パワースポットとして一気に有名になったから、汲んでいく人もいたのだろうな。

 

何度も参拝していて、いつも思うのだが、都内の観光スポットになっているから海外からの旅行者も多く、文化的文脈を共有してないから、神社にはそぐわない喧噪もあるが、つねに静寂を保っている場所なのだった。

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2015年12月19日 (土)

宇佐神宮

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うさじんぐう。大分県宇佐市にある。

式内社(名神大社3社)、豊前國一宮、勅祭社。旧官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。 全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。

石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。

古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。

また、神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。 現在も通称宇佐八幡と呼ばれる。

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写真:大鳥居

大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がる。

古くから皇室からの崇敬を受けている。称徳天皇時代には宇佐八幡宮神託事件が起こった。

参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。

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写真:上宮

ご祭神は、

一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ)− 誉田別尊(応神天皇)

二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) − 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)

三之御殿:神功皇后(息長足姫命) 

以上を主祭神とし、上宮・下宮の両方に祭られている。

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写真:若宮神社

創建は、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』に、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現・福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。

宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。

また、社伝等によれば、欽明天皇32年(571?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。

宇佐神宮をはじめ八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。

当社の南に立つ御許山山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社があり、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態ともいわれている。

そこに、辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込んだと考えられている。辛嶋氏は後に宇佐辛嶋郷に住み、辛嶋郷周辺に稲積六神社(いなずみろく-、稲積神社)、乙咩神社(おとめ-)、さらに酒井泉神社、郡瀬神社(ごうぜ-、昔は瀬社)の社殿を建築した。崇峻天皇年間(588? - 592?)に鷹居社(たかいしゃ)が建てられた。

奈良時代以降、和銅5年(712)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄えたとされる。

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写真:下宮

社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725)に一之殿が造営された。以後、天平元年(729)に二之殿、弘仁14年(823)に三之殿が造営されて現在の形式の本殿が完成したと伝えられている。

天平12年(740)の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。また、天平15年(743)の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。

そして、神護景雲3年(769)の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄した信仰を集めた。

『延喜式神名帳』には、3神が「豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」として記載され、いずれも名神大社に列した。

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写真:一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)跡(注)

また、平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であった。また神職家や坊官家は武士としても活動しており、このため近郊(特に豊後国)の有力武士としばしば敵対している。

源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司・宇佐公通が平氏方についた。屋島の戦いから敗走する総大将・平宗盛ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間安徳天皇と共に公通の舘に滞在していたが、豊後の緒方惟義が源氏方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した平清経が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。

また、このとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。この後発見されるが、朝廷の裁定により石清水八幡宮が管理することになった。

鎌倉時代の元寇でも当時の他の社寺同様に加持祈祷を行っている。この際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれた。その子・宇佐(到津)公連は鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。

戦国時代には豊後の守護戦国大名大友氏と、豊前国に手を伸ばしていた中国地方の覇者大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立した。

特に大内盛見や大内義隆の代には手厚く保護され、消失した社殿の造営や復興が行われた。宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている。

しかし、大寧寺の変により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、大友宗麟の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司宮成公建らは北九州市の到津八幡まで逃げ延びることとなった。

豊臣秀吉の九州平定後、豊前には毛利氏、ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐した。江戸時代には、宇佐一帯は中津藩・佐賀藩飛び地・天領などが複雑に入り組む土地となった。その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。

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写真:呉橋

神職については、宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)の大神氏が務めた。 平安時代中頃までは大神氏が務めたが、神主職を菟沙津彦 (ウサツヒコ) らの子孫・宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏が大宮司職を世襲した。

宇佐氏とその一族の岩根氏、安心院氏(安心院公正)も大宮司になったこともある。

鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。以後この2家が交互に大宮司職を継ぎ明治に至っている。

なお、一時宇佐氏一族の出光氏も大宮司となっている。 戦後、祝氏・宮成氏が男爵を返上し宇佐氏に復して祭祀を離れ、以後は到津氏が継承し祭祀を行っていた。平成16年(2004)ごろより到津宮司に代わって代務者が置かれるようになった。

神階は、八幡大菩薩宇佐宮天平勝宝元年(749)12月27日、一品 (『続日本紀』) 比売神社天平勝宝元年(749)12月27日、二品 (『続日本紀』) 天安元年(857)10月29日、一品 (『日本文徳天皇実録』)。

注:一柱騰宮(あしひとつあがりのみや):神武天皇は東征の際、宇佐に立ち寄った。宇佐国造(うさのくにのみやつこ)の祖・菟狭津彦命と菟狭津姫命が当時騰隈(とうのくま)と呼ばれていたこの地で出迎え、一柱騰宮を建て、饗(みあえ)を奉ったという伝承がある。

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2014年3月16日 (日)

春日大社

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かすがたいしゃ

式内社(名神大社)、二十二社の上七社の一社。旧官幣大社。

全国に約1000社ある春日神社の総本社。

ご祭神は、主祭神は春日神と総称される4柱。藤原氏の氏神である。

武甕槌命(藤原氏守護神)

経津主命(藤原氏守護神)

天児屋根命(藤原氏の祖神)

比売神(天児屋根命の妻)

社伝では、神護景雲二年(768))に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀とされている。

神仏習合時代は興福寺と関係が深かった。明治4年(1871)に春日神社に改称し、官幣大社に列した。昭和21年(1946)に春日大社に改称した。

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東回廊。

折角なので特別参拝で、中の拝殿でお参りした。

武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

参道に鹿がいたので、鹿せんべいをあげた。

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蕾って、丸いんだなあ。

 

そもそもこの日は朝から桧原神社、春日大社、廣瀬大社と龍田大社をどのような順番で廻るかで結構迷った。

結局、桧原神社のあと西に行って、廣瀬大社、龍田大社を先にお参りし、春日大社はあとにした。

春日大社は観光地なので駐車場も境内も混む可能性があるからである。でも、じっさいはスムーズにお参りできた。

最後にしようと思ってしまったのと、こちらでカメラのバッテリーが切れてしまい早いけど帰ろうと思った。

このあと、思い直して西宮に向かうのだが、すぐ近くにある手向山八幡にお参りすることをすっかり忘れてしまった。

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2014年3月15日 (土)

橿原神宮

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かしはらじんぐう。

旧官幣大社。

ご祭神は神武天皇。

創建は明治23年(1890)である。

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初代天皇の神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる当地に、明治天皇によって、官幣大社として創建された。

畝傍山東麓は北側が神武天皇御陵、南側が橿原神宮となっている。

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昨年に続き、2度目の参拝である。

池に水鳥がたくさんいた。憩いの場所になっている。

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2014年3月 2日 (日)

熱田神宮

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あつたじんぐう

式内社(名神大社)。尾張国三宮。旧官幣大社。

宮中の四方拝で遥拝される一社である。

ご祭神は、熱田大神。三種の神器の草薙神剣を御霊代とする天照大神のことだそうだ。でも、日本武尊と縁起が深いので日本武尊という説もあるらしい。

相殿に天照大神 、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命 (みやすひめのみこと)、建稲種命 (たけいなだねのみこと)。

景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘である宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手許へ留め置いた。

日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は地を卜定して熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりといわれている。

三種の神器のひとつ、草薙剣は熱田に置かれているとされている。

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本宮拝殿。

左手後ろに一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)があり、熱田大神の荒魂を祀っている。

正門右に別宮八剣宮があり、和銅元年(708)の鎮座である。ご祭神は本宮と同じである。いまは補修工事をしており、境内の上知我麻神社に遷られている。

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よい天気だった。

高速道路がうまく流れていて、15時過ぎに着いた。

ここはいつかはお参りしたいと思っていたお社だ。でも、自動車の運転がすごい名古屋の街中なので倦厭していた。

途中にもお参りしたいお社があったけど、やっぱり一度来たかった。

お参りできてよかった。

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2014年2月18日 (火)

明治神宮

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めいじじんぐう

原宿駅から神宮橋を渡って、社叢林に囲まれた広大な社有地のなかの参道を歩いていく。

いつも手入れが行き届いていて、お参りするときは気持ちが良いだけでなく、身が引き締まる思いがする。

今回は2回目。

出張先の目の前にあるので、またお参りをさせていただいた。

雪もきれいに退けてあった。

観光客も少なく、静かにお参りできました。

ありがとうございます。

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2013年12月13日 (金)

香椎宮

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かしいぐう。

旧官幣大社。香椎廟。

主祭神に仲哀天皇、神功皇后が祀られ、応神天皇、住吉大神が配祀されている。

香椎宮の名称は敷地内に香ばしい香りの「棺懸(かんかけ)の椎」が立っていたことに由来するとされる。

境内の裏手にその古跡があり、いまもその椎の木が立っている。

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境内に奉幣のため訪れた勅使が植えた木がいくつかあり、御手植えの碑に日付が記されている。

本殿の真後ろに立派な樹があるけど、ご神木ではないのだな。

香椎神宮という名称は間違いだそうだ。駅の名前がそうなっているので、誤解されるらしい。

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2013年9月 8日 (日)

出雲大社

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いずもおおやしろ。

近くに来たので、お参りした。今回で3回目だ。

出雲國神仏霊場 第一番。

霊場巡りのご朱印は前回のお参りでいただいたので、今回は通常のご朱印をいただく。

メインの土産物店にも入ってみた。

 

前日と同じように生憎の空模様。

朝早いせいか、人影がまばらだったが、帰る頃には観光客が押し寄せてきた。

団体旅行客の旅程に天候は関係ないからな。

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2013年8月 4日 (日)

近江神宮

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おうみじんぐう

大津京の地にあり、天智天皇を祀っている。たいへん立派な神社だった。

 

京都南ICから入って、すぐに京都東ICで下りて、琵琶湖の西側を北上する。あれ、一度通ったことがあるなと思ったら、この日の朝、草津から京都に来たときに同じICで下りたのだった。ボケが進行しているらしい(苦笑)

バイパスを下りると、左が日吉大社、右が近江神宮とあり、示されていた距離がかなり近かったので、近江神宮を先にお参りした。

何ヵ月か前に一度調べたことがあり、大津も都だったんだと思い出した。

こちらで3冊目のご朱印帳が埋まった。

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賀茂御祖神社

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かもみおやじんじゃ。、京都市左京区にある。

通称下鴨神社(しもがもじんじゃ)。

式内社(名神大社)。山城国一宮。二十二社(上七社)の一社。旧官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。

西殿に京都を開いた神様、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を、東殿に玉依媛命(たまよりひめのみこと)を祀っている。

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鳥居の前の両側に石が置かれていた。

石拾神事の生石(おいいし)御祓い場。お祓いをしているそうだ。

平成27年の式年遷宮に向けて御垣内の御石を敷き詰めた磐座(いわくら)を3年間清めるのだという。

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河合神社(かわいじんじゃ)。

下鴨神社の糺の森の入り口にある第一の摂社で、玉依媛命を祀ってある。

河合神社は通称で、本当の名前は鴨川合坐小社宅神社(かものかわあいにますおこそやけのかみのやしろ)という。日本第一美麗神。

美麗の神様なので、女性の参拝客がやたら多く、汗だらだらのおじさんは浮いてしまったが、巫女に親切に対応していただいた。

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