*招魂社・護国神社

2016年11月14日 (月)

富山縣護國神社

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とやまけんごこくじんじゃ。富山県富山市にある。

旧内務大臣指定護国神社。現在は神社庁の別表神社。

ご祭神は、富山県出身の明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)までの戰歿英霊28,679柱である。

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明治45年(大正元年・1912)3月に富山縣招魂社として設立が認められ、富山県知事が建設委員長となって翌大正2年(1913)8月に竣工、10月に鎮座が行われた。

昭和14年(1939)、富山縣護國神社に改称した。

昭和20年(1945)の富山大空襲によって、手水舎などごく一部の建物を除いて社殿を焼失した。

社殿は昭和29年(1954)に再建された。現在の大拝殿は平成3年(1991)に創建80周年を記念して竣工した。

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本殿の右側に伊佐雄志神社がある。

富山大空襲による戰災殉難者、治安の維持と公共の災害防護その他安定のために殉職した自衛官、警察官、消防團員、消防署員、郵便局員及び地方功労者を祭神として祀る。

戦災により社殿が焼失したが、昭和50年(1975)に富山縣護國神社終戦30周年記念事業として造営、8月1日に竣工した。

平成22年(2010)9月に現在の伊佐雄志神社に改称した。

遺芳館には戰歿英靈の遺書等を展示している。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・加筆・編集

 

御朱印をいただくときに、ご神職が神社について説明してくださり、御朱印帳に富山県出身の高田豊志氏の遺詠を書いてくださった。

 夢にだに 忘れぬ母の涙をば いだきて三途の橋を渡らむ

富山縣護國神社のホームページには、創建90周年記念でまとめた「遺芳録」が掲載されており、高田豊志氏は高田豊志命として最初に紹介されている。

記事によると、陸運少年飛行兵第十三期生で、昭和二十年五月十三日に沖縄本島西海岸沖にて特攻戦死した。数え年で二十一歳であった。遺品の大学ノートに歌や文章が残されていた。

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2016年7月16日 (土)

岐阜護國神社

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ぎふごこくじんじゃ。岐阜県岐阜市、岐阜城の築かれた金華山の北麓にある。

旧内務大臣指定護国神社。現在は神社本庁の別表神社。

明治維新以来の岐阜県出身の護国の英霊37,800余柱を祀る。

長良川に面する参道の鳥居(上の写真)では、背景に金華山と頂上の岐阜城が臨める。

神紋は菊に桜。

近年では、本殿での神前結婚式が数多く執り行われており、平和を打ち立てる神、家内安全の神として崇敬されている。併設のせいらん会館では結婚披露宴も行われる。

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駐車場側の鳥居。

自動車で訪れるとこちらから境内に進むため、長良川の参道を知らずに参拝を済ませる人も多そうだ。

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創建の経緯は次のとおりである。

岐阜県内には、元々招魂社として、明治3年(1870)に大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)、明治42年(1909)に高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)が創建されていたが、岐阜市ほか10郡には招魂社がなかった。

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日露戦争後の明治41年(1908)、岐阜市郊外の稲葉郡北長森村(現 岐阜市野一色)に陸軍歩兵第68聯隊が設置され、大正6年(1917)に稲葉郡那加村(現 各務原市)に陸軍各務原飛行場が開設されると、当地出身の殉国者を祀る招魂社建立の機運が高まった。

大正7年(1918)に歩兵第68聯隊は岐阜県知事、市町村長及び在郷軍人などの有志と共に招魂社の創建を企画したが実現しなかった。

昭和12年(1937)の支那事変勃発に伴い、昭和14年(1939)3月10日に2市10郡209ケ村の代表者が内務省へ創立を出願し、内務大臣から創立許可を受けた。

翌昭和15年(1940)11月に社殿が竣工、同19日に鎮座の儀、翌20日に幣帛供進の儀が執り行われて創建された。

なお、昭和14年(1939)4月1日に施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)により、招魂社は護國神社と名称が改められていたので、創建当初から「岐阜護國神社」と称し、内務大臣指定護国神社に指定された。

第二次世界大戦後の一時期は美濃御霊神社と改称していたが、主権回復後は元の名に復した。平成7年(1995)には終戦50周年事業として外拝殿が竣工している。

 

境内には、戦災犠牲者(空襲や海外移民、敵味方を問わず)及び無縁の遺族や遺骨を祀る鎮霊社があるほか、英霊の霊璽簿(名簿)を護る耐火耐震造の奉安殿、河童大明神を祀る河童堂などがある。

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鎮霊社

社殿垣外右側にあり、光溢れる静謐な場所になっている。

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鎮霊社の狛犬

白目を塗ってあることが風貌に独特な印象を与え、苔むした姿も存在感を強めている。

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せいらん会館は神社の付帯施設で、以前は「ホテルせいらん」として営業していたが、平成19年(2007)4月に営業終了し、平成21年(2009)6月に全面リニューアルし、神社の参集殿・結婚披露宴のみの営業となった。また、参集所の1階には岐阜県遺族会の事務所が入居する。

春は桜の名所として境内の早咲きの鵜飼桜(江戸彼岸桜)が有名である。岐阜市内で最も早く開花するこの桜は、幹周り約2.5m、樹高約8m、樹齢100年以上と古く、春の訪れと共に多くの花を咲かせる。かつては桜の咲き具合で鵜飼の鮎の漁獲量を占ったので鵜飼桜の名が付いたという。岐阜公園・長良川堤の桜と併せて、飛騨・美濃さくら三十三選の一つに選ばれている。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・加筆・編集

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拝殿の左側に石が立っていたので、社務所で何か尋ねてみたら、鶴と亀を模した石なのだそうだ。

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参道左側の石は立っていて、鶴を表し、

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参道右側の平べったい石は亀を表している。

おめでたい庭になっているのだそうだ。

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明治大帝聖像

長良川沿いの鳥居の近くに設置されている。

元々は昭和47年に岐阜公園千畳敷に設置されたが、明治大帝崩御百年を機に、平成24年3月にこの地に移設された。

このような恰幅のよい明治天皇像を初めて見た。

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平和祈念の碑と慰霊塔

駐車場側の鳥居の手前左に設置されている。

 

蒸し暑い日であったが、岐阜駅からバスで移動し、お参りできた。

岐阜駅から長良橋停留所までのバスは数系統あるので、利便性はよいと思う。金華山頂上の岐阜城に上るロープウェイ乗り場、長良川の鵜飼観光船乗り場などもあり、観光と組み合わせて参拝することもできる。

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滋賀縣護國神社

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しがけんごこくじんじゃ。滋賀県彦根市の彦根城址にある。

旧内務大臣指定護国神社。現在は神社本庁の別表神社。

戊辰戦争から第二次世界大戦までの滋賀県関係の戦歿者3万4千余柱を祀る。

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明治2年(1869)、彦根の大洞竜潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士26人の霊を祀る招魂碑が建てられた。

明治8年(1875)、元彦根藩主井伊直憲の主唱により招魂碑を神社に改造する旨の政府の通達が出され、招魂碑を現在地に移し、翌明治9年、同地に社殿を造営・鎮座した。

昭和14年(1939)に内務大臣指定護国神社として「滋賀県護國神社」に改称した。

第二次大戦後の占領期は「沙々那美神社」と改称していたが、日本が主権を回復した昭和28年(1953)に元の社名に復した。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・編集

 

彦根城址公園の入口にあり、境内左側は彦根城博物館、玄宮園を訪れる観光客の駐車場に面している。様々な記念碑は境内右側に設置されている。

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滋賀県シベリヤ抑留者慰霊碑 平成12年11月吉日

滋賀県出身者の四百余名が現地で抑留中に亡くなった。

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戦歿軍馬軍犬軍鳩霊之碑

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平和の碑 彦根傷痍軍人会

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滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑 昭和42年12月9日

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拓友碑 三滋北義會 昭和48年9月

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花塚

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母の像

㈶滋賀県遺族会60周年記念 平成19年9月吉日

父の像

㈶滋賀県遺族会青壮年部 昭和44年8月吉日

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2016年6月 9日 (木)

長野縣護國神社

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ながのけんごこくじんじゃ。長野県松本市美須々にある。

護国神社。神社本庁の別表神社。

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ご祭神は、明治維新から第二次世界大戦までの国難に殉じた長野県出身者を祀る。

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創建は、昭和13年(1938)11月に長野県招魂社として仮社殿で創建された。翌昭和14年(1939)3月に長野縣護國神社に改称し、同年4月1日に内務大臣指定護国神社となった。

昭和17年(1942)、社殿・社務所などが竣工した。

第二次世界大戦後の一時期、「護国神社」の名称では軍国主義施設と見なされるという理由から、存続を図るために信濃国の枕詞に由来する「美須々之宮」に改称していた。

昭和32年(1957)4月、神社本庁の別表神社に指定された。

※以上、文章はWikipediaの記載内容、公式ホームページ、当社冊子を抜粋・編集

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石碑

参道を進むと左側に設置されている。

南十字星の下に散華せる 嗚呼戦友

と刻まれている。

昭和49年(1974)7月28日に長野県ニューギニア会が建立したもの。

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滿蒙開拓青少年義勇軍第七次斎藤中隊 拓友之碑

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シベリア抑留慰霊碑

 

招魂社、護国神社をお参りすることにした。

長野縣護國神社はとてもよく整備されていて、境内の景観が素晴らしい。境内参道の両側の芝生の手入れも行き届いていた。

神前結婚式のプロモーションをしていて、この施設なら丁寧で素晴らしい式になるように思う。

施設の性格上、写真のように殉難者のための慰霊碑が多いので、裏側もよく調べてこないといけない。

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2016年5月 2日 (月)

靖國神社

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やすくにじんじゃ。東京都千代田区九段北にある。

※「やす」の旁の「青」の下部は「月」でなく「円」

勅祭社。旧別格官幣社。単立宗教法人(単立神社)。

九段坂の坂上に東面して鎮座しており、大鳥居が東に向いている神社の一つでもある。

元来は東京招魂社という名称であったが、後に靖國神社に改称された。招魂社であるので、氏子地域は存在しない(当社所在地は築土神社の氏子地域にあたる)。

創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した。

昭和21年(1946)に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の単立宗教法人となった。

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ご祭神は幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853)のペリー来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀る。

その柱数は平成16年(2004)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。

当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。

この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、昭和34年(1959)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。

従って、現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。

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創建及びその後の経緯については以下のとおりである。

戊辰戦争終戦後の慶応4年(1868)旧暦6月2日に、東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行した。

同年旧暦5月10日には、太政官布告で京都東山に戦死者を祀ることが命ぜられた(現 京都霊山護国神社)。

同旧暦7月10・11の両日には京都の河東操錬場において神祇官による嘉永6年(1853)以降の殉国者を慰霊する祭典が行われた。

これらのように幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。

こうした動きを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて、明治2年(1869)旧暦6月12日に現社地での招魂社創建が決定された。同月29日(新暦8月6日)に五辻安仲が勅使として差遣され、時の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京招魂社」として創建された。

ただし、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは明治5年(1872)であった。東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があった為に、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て明治12年(1879)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた。

正規な神社となった後も神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、同省と陸軍省および海軍省によって共同管理され、運営の主導権は財政を担った陸軍省が有する等、神社としては特殊な存在ではあった。

創祀以後、春秋の例大祭には勅使が差遣されての奉幣が行われ、また新たに神霊を合祀するに際しても勅使を差遣した他、天皇・皇后の行幸啓を始めとする皇族の親拝や代参も頻繁になされる等、皇室および国家から臣下を祀る神社(別格官幣社)としては特別な殊遇を受け、また合祀祭に当たっては諸官員(公務員)に休日を賜わった。

なお、祭主は陸・海軍武官が勤めた。

昭和7年(1932)、上智大生靖国神社参拝拒否事件が起きた。この事件を受けて、ローマ教皇庁福音宣教省(長官はピエトロ・フマゾーニ・ビオンディ枢機卿)が昭和11年(1936)に訓令「祖国に対する信者のつとめ(Pluries Instanterque)」を駐日教皇庁使節パオロ・マレーラ大司教に宛てて送り、愛国心の表明としての靖国神社参拝が容認された。

昭和15年(1940)には「靖国神社の歌」が制作された。

戦後、GHQは昭和20年(1945)12月15日に神道指令を発布した。

昭和22年(1947)11月には日本遺族厚生連盟が発足、昭和28年(1953)には日本遺族会へと発展した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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2014年2月26日 (水)

石川護國神社

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いしかわごこくじんじゃ

旧内務大臣指定護国神社。現在は神社本庁の別表神社。

石川県出身の英霊(戦没者の御霊)を祀る。

明治元年の戊辰の役(北越戦争)で戦死した加賀藩の百八名の戦没者の御霊を、同三年、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが創建とされる。

その後、西南の役、日清・日露の両戦役、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争までの英霊、四万四千八百八十七柱を合わせ祀っている。

これらには、第九師団管下の富山・福井・岐阜・滋賀県出身の英霊一万九百十九柱が含まれている。

昭和10年に卯辰山の招魂社から、小立野練兵場の一部である現在地に遷座され、同時に石川県・第九師団・県下市町村その他有志により奉賛会が組織された。

昭和14年に石川護國神社と改称された。

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2013年7月20日 (土)

靖国神社

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やすくにじんじゃ。

いろいろと話題に事欠かないお社だけど、毎日たくさんの人の参拝がある。

参道の両脇にたくさんの観光バスが停まっている。たいへんな数だ。

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参道に大村益次郎の碑があった。

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