*稲荷神社・稲荷社

2017年1月12日 (木)

烏森神社

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からすもりじんじゃ 公式サイト

東京都港区新橋二丁目にある。

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ご祭神は、倉稲魂命(稲荷神)、天鈿女命、瓊々杵尊を祀る。

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創建は、社伝によれば、天慶3年(940)、平将門が乱を起こした際、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていたところ、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建した、というのが当社の始まりであるという。

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祭事

例大祭 5月4・5・6日 (夏祭り:はしり烏森祭)

江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは「江戸で一二を争うものであった」そうだ。

新橋には他に日比谷神社があり、大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われる。

当社の大神輿は1930年に名人・山本正太郎(通称だし鉄)によって作られた巨大なもの。境内に木遣塚あり。

「心願色みくじ」と御朱印が組み合わされている。

※以上、文章はWikipedia、公式サイト、境内案内版を抜粋・加筆・編集

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2016年5月14日 (土)

於岩稲荷田宮神社(新宿区)

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おいわいなりたみやじんじゃ。東京都新宿区左門町にある。

旧無格社。 

鶴屋南北の『四谷怪談』の登場人物のモデルとなったお岩さんを祀る神社である。

元々は四谷左門町の田宮家の屋敷社(やしきがみ)であった。

 

江戸時代の初め、徳川家の御家人・田宮又左衛門の娘で田宮岩は夫の伊右衛門と仲の良い夫婦であった。お岩は三〇俵三人扶持、年の棒給は十六石足らずの家計を支えるため、商家に奉公に出た結果、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての隆盛を取り戻した。

寛永13年(1636)、田宮岩 没。

お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していたため、その信仰のおかげで田宮家は復活したと評判になり、近隣の人々はその幸運にあやかろうと、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。

評判が高くなるにつれ、田宮家では屋敷社の傍らに小さな祠をつくり「お岩稲荷」と名付けて信仰するようになった。

享保2年(1717)、「お岩稲荷」勧請、「於岩稲荷社」となる。

「大巌稲荷」、「四谷稲荷」、「左門町稲荷」などとも呼ばれていた。

文政8年(1825)、ご祭神「於岩さま」が主人公のモデルとなった東海道四谷怪談(四世鶴屋南北作)が上演され、大人気となった。

お岩役に三代目尾上菊五郎、伊右衛門役に七代目市川団十郎。以来、お岩役は尾上家のお家芸となった。

文政10年(1827)、『文政町方書上』に「於岩稲荷社来由」が付される。

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明治3年(1870)頃、「於岩稲荷田宮神社」に改称。

明治12年(1879)、四谷左門町の火事で社殿が焼失。隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に移転した。これが現在の中央区新川ににあるもう一つの於岩稲荷神社の起源である。

昭和6年(1931)、四谷左門町の「於岩稲荷田宮神社」地が東京都史跡として指定される。

昭和20年(1945)、新川の社殿が戦災で焼失。

戦後、四谷、新川ともども再建して、現在に至る。

※以上、文章は当社由緒書きから抜粋・編集

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拝殿の縁にお札が置いてあり、参拝者が好きな言葉のものを取っていけるようになっている。

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住宅街にあり、斜向いの寺院も於岩稲荷の幟を立てていた。

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2016年4月30日 (土)

東伏見稲荷神社

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ひがしふしみいなりじんじゃ。東京都西東京市にある。

京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建された。

東伏見という地名はこの神社が出来てからついた地名で、それにあわせて西武新宿線の駅名も上保谷から東伏見に変更された。

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ご祭神は伏見稲荷大社の祭神の中から、宇迦御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神の3柱を勧請し、この3座を「東伏見稲荷大神」と総称している。

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創建は、関東地方の稲荷神を信仰する信者たちの希望により、昭和4年(1929)に稲荷神の総本社である伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建された。

戦前、中島飛行機の社員研修所があり、鍛錬教育が行われていた。このため、中島飛行機武蔵野製作所でなくなった人々の慰霊碑がある。

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勧請の新しさからか、規模は大きいが近代社格制度下で社格が与えられることはなかった(旧無格社)。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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本殿の後方にお塚と呼ばれるたくさんのお社が祀ってあり、お参りできるようになっている。

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社地全景

最初の写真は西武新宿線の東伏見駅南口を出て、右に出て、線路脇の道路の入り口にあった鳥居。

手前が交番で写真を撮っていたら、若い警官から「今日は何かあるんですか」と訊かれた。何人かに東伏見稲荷神社への道を訊かれたのだろうな。

住宅街を10分くらい歩いていくと社叢が見えて、上の写真のような社地が目の前に現れた。

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2016年4月23日 (土)

王子稲荷神社

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おうじいなりじんじゃ。東京都北区岸町にある。

東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名。

ご祭神は、宇迦之御魂神、宇気母智之神、和久産巣日神を祀る。

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古くは岸稲荷と号した。

『新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十』に、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座したことから名付けられたという。

また、治承四年に源頼朝より奉納を得たという。

徳川家康が王子稲荷、王子権現、両社の別当寺であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域での存在を大きくした。

毎年大晦日の夜、諸国の狐、社地の東、古榎のあたりにあつまり、装束をあらためるといい、江戸時代は狐火で有名だった。

『江戸砂子』王子稲荷の段にその狐火のことが記されている。

狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ。

狐火にわうじ田畑のよしあしを知らんとここに金輪寺かな 年毎に刻限おなじからず、一時ほどのうちなり。宵にあり、あかつきにありなどして、これを見んために遠方より来るもの空しく帰ること多し、一夜とどまれば必ず見るといへり。

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近年「関東八州」の稲荷の総社と紹介されるようになっているが、元来は東国三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた。 社伝には「康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」 とある。

この「関東」を中世以来別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国」と解釈してきた。

三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「若一王子縁起」(紙の博物館蔵)の付箋が示す通り江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた。

寛政の改革時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった。

『新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十』は、王子稲荷について

当社は(王子)権現の末社の如く聞こえたれど左にあらず、金輪寺中興宥養(家康と昵懇の間柄の高僧)を王子両社(王子権現と王子稲荷)の別当に補せらると云うに拠っても知らるる、

と記している。

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王子稲荷は江戸町民からいちばんの人気であった。江戸の名所として絵画にも描かれている。歌川広重は『名所江戸百景』において王子稲荷を描いた。

三代歌川豊国(国貞)には、弘化4年(1848)から嘉永5年(1852)の間に出版された三枚続きの浮世絵「王子稲荷初午祭ノ図」があり、善光寺の絵の表題を変えたものという説もあるとのこと。

明治時代、乃木希典夫妻の崇敬が篤かったことから、昭和37年(1962)に至り、乃木神社に赤坂王子稲荷神社として分霊された。

毎月午の日が縁日で、2月初午の日、二の午、三の午には賑わう。 社務所にて火防(ひぶせ)の凧、守札がだされ、境内にも凧を売る店が立つ。

毎年大晦日、除夜とともに「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かって賑わいを見せる。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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参道の石段の右側に厳島神社がある。

 

上述のように王子稲荷は有名で、落語や美術にも登場する。先日お参りした乃木神社にも勧請されていたので、日を置かずお参りに訪れた。

狐火の話は興味深い。農民は狐火を見て豊作か凶作か占ったという。一晩いれば必ず見られるというのは相当なものだったのだろう。近くで人がたくさん亡くなってリンが多かったのかもしれないな。

善光寺を描いた絵の表題を変えたという説も面白い。真実ならそれほど人気があって売れたということだろう。社務所に浮世絵の絵はがき(5枚セット)を置いてあり、10種類もあるので、選ぶのに迷った。狐が描かれている第四集にした。360円。

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花園神社

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はなぞのじんじゃ。東京都新宿区新宿3丁目にある。

旧郷社。

ご祭神は、倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の三柱の神を祀る。

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創建については不詳である。徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在しており、大和国吉野山より勧請したと伝わる。

その後、当地に内藤新宿が開かれるとその鎮守として祭られるようになった。元は現在地よりも約250メートル南にあったが、寛政年間、その地を朝倉筑後守が拝領しその下屋敷の敷地内となって参拝ができなくなった。氏子がその旨を幕府に訴えて、尾張藩下屋敷の庭の一部である現在地を拝領し、そこに遷座した。そこは多くの花が咲き乱れていた花園の跡であることから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられる。

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また、真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも、地名から「四谷追分稲荷」とも呼ばれた。

明治に入り近代社格制度で村社に列格したが、その際、名称は単に「稲荷神社」となった。一説には届出の際に「花園」を書き忘れたという。

大正5年(1916)1月25日に東京府知事に対し改名願を出し、同年2月26日に許可され「花園稲荷神社」に改称した。

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※拝殿正面の参道の入り口にある鳥居の横に「花園稲荷神社」の社号標がある

 

昭和3年(1928)、現新宿4丁目にあった雷電稲荷神社(雷電神社/祭神:受持神)を合祀、郷社に昇格した。

昭和40年(1965)、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神:日本武尊)を本殿に合祀し、社名を「花園神社」に改めた。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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威徳稲荷神社

 

新宿の繁華街に近く、場所柄、参拝者の絶えない神社で、ご朱印をいただくのも数人待ちであった。

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2016年4月18日 (月)

福徳稲荷神社

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ふくとくいなりじんじゃ。山口県下関市豊浦町宇賀犬鳴の稲城山中腹にある。

 

ご祭神は、

 宇迦之御魂大神(谷川稲荷)下社

 大宮能売大神(谷森稲荷)中社

 大市比売大神(谷嶽稲荷)奥社

を祀る。

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創建年代は不詳。往時は谷嶽、谷森、谷川稲荷の呼称で祀り、社を造営していたという。

昭和46年(1971)に三所の稲荷神社を合祀する社殿を新たに造営し、谷川稲荷の碑に刻まれた「福徳」を神号として、福徳稲荷神社と称えて現在に至っている。

※以上、文章はリーフレット記載の内容を抜粋・編集

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立派な社殿の右奥に千本鳥居が続いていて、三つの稲荷社がある。

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少し下り傾斜の参道をずっと歩いていくと、車から見えた稲荷社に着いた。結構、長くて汗をかいた。

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元々、下関の中心部に向かって海岸通りを走っていたら、福徳稲荷神社の大きな鳥居が見えた。

どうも観光施設のように見えたので通り過ぎたが、ふと上を見るとこの小さな社が見えたので、写真のT字路でくるっと引き返して、お参りしてみた。海岸通りはなかなかUターンできないのだ。

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平日で観光客の姿は少なかったが、駐車場が広く、眺望も素晴らしく、まさに観光対応ができた神社だった。

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元乃隅稲成神社

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もとのすみいなりじんじゃ。山口県長門市にある。

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言い伝えによれば、昭和30年(1955)のある夜に、地元の網元の枕元に白狐が現れ、「これまで漁をしてこられたのは誰のおかげか。」と過去からの関わりを詳細に述べた後、「吾をこの地に鎮祭せよ。」というお告げがあったことにより、太鼓谷稲成神社から勧請を受け、分霊された。

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昭和62年(1987)から10年かけて奉納された123基の鳥居が、龍宮から100メートル以上に渡り並んでいる。

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最近では、アメリカのニュース専門放送局・CNNが発表した「Japan’s 31 most beautiful places “日本の最も美しい場所31選” 」の中にランクインしたことから、再び注目が集まるようになった。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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正月頃にTVで紹介されていたので、どんな処か行ってみた。「龍宮の潮吹き」(天然記念物)という景勝地にある。神社というよりも観光的要素の強い施設だった。

裏参道の鳥居(駐車場からはこちらが正面になる)では、観光客がTVでも紹介された鳥居の上の賽銭箱へ賽銭を投げ入れる行為に興じていた。

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事務所みたいな小屋に書き置きのご朱印の紙が置かれていて、初穂料は「お気持ち」ということで、自由に取っていけるようになっていた。

このご朱印が何やらパソコンで自作したような感じで、狐のイラストの部分は4色のパターンが用意されており、近年のご朱印ブームをよく研究されているようだった。

しかし、熱心な参拝者はこの手のものは評価しないような気がする。自分もさすがにほかの神社のご朱印と一緒にすることには抵抗がある。サンプルとして持ち帰ったものの取扱いに困ってしまった。

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2016年4月16日 (土)

太鼓谷稲成神社

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たいこだにいなりじんじゃ。島根県津和野市にある。

旧社格は郷社。

通称「津和野おいなりさん」。全国で唯一「いなり」を「稲成」と表記するとされる。

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ご祭神は、宇迦之御魂神(稲荷神)と伊弉冉尊を祀る。

創建は、安永2年(1773)、津和野藩の七代藩主である亀井矩貞が、藩の領民安寧のために京都の伏見稲荷大社から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したことに始まる。

以降、歴代藩主の崇敬を受け、廃藩後は庶民も参拝できるようになり、中国地方有数の稲荷神社となった。

現在は「日本五大稲荷」を称している(他の4社は伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社)。

昭和10年(1935)に郷社に列格した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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元宮

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元宮の裏側にまわると命婦社がある。

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このように峰の中腹にある。

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境内から津和野の町が一望できる。手前は津和野高校のグランド。

左側の山のなかにくぐってきた大鳥居があるが、この写真では小さくて見えない。

 

「稲荷」を「稲成」と表記しているのは、言い伝えがあるとのこと。

稲成の言い伝え(公式ホームページ)

 

かねてより是非お参りしたいと考えていたが、この度の熊本地震で計画を変更し、山口市内に逗留したことで、参拝の機会ができた。本来なら表参道から千本鳥居をくぐってお参りするところ、迂闊にも神社の駐車場まで車で上がってしまった。

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2016年4月 4日 (月)

箭弓稲荷神社

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やきゅういなりじんじゃ。埼玉県東松山市にある。

戦後、神社本庁の別表神社となった。

日本三大稲荷の一つとしてあげられることがある。

ちょうど二週間前にお参りしたので、神社の詳細はこちらを。

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今回の目的はお参りして再度彫刻を確認するとともに、写真の大判(12×18)のご朱印帳を分けていただくことであった。

二週間前にお参りしたときは彫刻の素晴らしさに気をとられ、授与所に陳列されたご朱印帳が目に入らず、手持ちのご朱印帳にお願いしたのだった。

大判のオリジナルご朱印帳はなかなかない。こちらのものは稲荷紋に弓を引く?デザイン。それに牡丹の刺繍が入っている(牡丹園が有名)。

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2016年3月21日 (月)

箭弓稲荷神社

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やきゅういなりじんじゃ。埼玉県東松山市にある。

旧県社。戦後、神社本庁の別表神社となった。

日本三大稲荷の一つとしてあげられることがある。

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ご祭紳は稲荷神社なので、保食神(宇迦之御魂神・豊受比賣神)を祀る。

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創建は、和銅5年(712)と伝えられる。その頃は小さな祠だったようだ。

社名は箭(矢)と弓のこと。その由来については、平忠常の乱が関係している。

長元元年(1028)に下総国の平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。

長元3年(1030)、これを受けて源氏の棟梁・源満仲(多田満仲)の子であり、甲斐国守を勤める源頼信が、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢で、武勇の頼信も心を悩ませた。

その時、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけたので、問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。

これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納した。

その夜、白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝した。

一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建し、「箭弓稲荷大明神」と讃えたた。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。

以後、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。

似た内容の話として、延暦10年(791)、坂上田村麻呂が箭弓稲荷より南西約4kmにある物見山の悪竜を退治する際に、老人の姿の神が矢を授けたとの言い伝えもある。

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関連する寺院に福聚寺があり、その草創については次のようにある。

当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。

元和3年(1617)、天海僧正が駿府から下野国へ神輿(二度葬される途中の家康と思われる)を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。

すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。

これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。

この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺という寺号を与え、庵主を別当職に補任した。

明治初年、神仏分離により福聚寺は別当から離れることとなった(福聚寺は今も東松山市本町に存在する)。

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本殿の後方に穴宮稲荷(団十郎稲荷)がある。

七代目市川団十郎は、芸道一筋に生きた歌舞伎役者で当社の熱心な崇敬者であったと伝える。

社伝によると、歌舞伎の演じ物に「葛の葉」「狐忠信(義経千本桜四段目 河連法眼館の段)」があり、狐の仕草が非常に難しいとされるが、団十郎は稲荷大神に心願し、その加護を受け、ついに江戸柳盛座で見事に演じきり、大盛況のうちに興行を終えることができたという。

そのため、大願成就のための石祠一社を文政4年(1821)に奉納している。これは、お穴様と呼ばれる穴宮神社で、現在でも技芸向上に励む人々から信仰されている。

 

現代では社名の「やきゅう」に因んで、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝している。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れる。

また、これに因んで「バット絵馬」「ベース絵馬」等が頒布されている。

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