【建武中興十五社】

2016年3月12日 (土)

菊池神社

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きくちじんじゃ。熊本県菊池市にある。

旧別格官幣社。現在は神社本庁の別表神社。

建武中興十五社のうちの一社。

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ご祭神は、 南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏の三代を祀る。

菊池氏は後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。

当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀する。

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創建は、慶応4年(1868)に熊本藩から明治新政府の参与に出仕した長岡護美が、菊池氏と加藤清正のために神社を創建する案を建議した。

同年7月18日、太政官政府はこの建言を採択し、熊本藩に両者の祭祀を執行するよう命じた。

そこで、熊本藩は清正のために熊本城内に錦山神社を建て(現加藤神社)、菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建てた。

菊地神社の鎮座祭は明治3年(1870)4月28日に行われ、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした。

明治6年(1873)5月に郷社に列され、8年(1875)7月には県社に昇格した。

しかし、直後の10月24日に楠木正成を祭る楠社(現 湊川神社)が別格官幣社なのに対して、菊池神社が県社では不公平だと白川県が教部省に願い出た。

3年後の明治11年(1878)1月10日に名和神社とともに別格官幣社に列した。あわせて、その時まで配祀されていた武重、武士、武光、武政、武朝の5人に加え、菊池氏に従って戦った一族他家の将士も配祀することになった。

同年6月3日に、菊池武時が戦死した元弘3年3月13日を太陽暦に換算した5月5日を例祭日に定めた。

大正12年(1923)に配祀されていた武重と武光を主神に加えた。

昭和26年(1951)に宗教法人法が公布されたのをうけ、昭和27年(1952)9月13日に宗教法人菊池神社となった。

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境内からの眺望。菊池の市街地が見える。

境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されているそうだが、見逃してしまった。こちらも例に違わず、桜の名所である。

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2016年2月 6日 (土)

阿倍野神社

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あべのじんじゃ。大阪市阿倍野区北畠にある。

建武中興十五社。旧別格官幣社。

ご祭神は、南朝方について各地を転戦した北畠顕家(きたばたけあきいえ)と、その父の親房(ちかふさ)を祀っている。

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境内の北畠顕家像。

北畠顕家は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将で、『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男である。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。

建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。

やがて任地に戻ったが、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。

以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。

明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。

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創建については。延元3年(1338)に顕家が足利方に敗れて亡くなったと伝承される地に、明治8年(1875年)、地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのに始まる。

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以下の建立までの経緯には当時の神社創建のやり取りが垣間見える。

明治11年(1878年)2月27日、東城兎幾雄・松本楚文ら15人が東成郡阿部野村にある北畠顕家の墓を修繕し、社殿を造営したいと願い出た。大阪府は、建物と境内の面積、創建後の維持の方法、神官の受け持ちを定め、社地と墓地を区分した詳細絵図を添えてもう一度願い出るようにと答えた。

請願者は400円を用意し、天王寺村内の土地の購入計画を立てた。再提出を受けた大阪府は、願いの通りにするよう請願書を添えて内務省に伺を出した。内務省は神社創建は請願通り、墓は民間に任せず官費で記念碑を建てるべきと判断し、それが9月21日に太政官政府の決定として下されたが、この決定から創建まではなお曲折があった。

大阪府は、北畠顕家の忠誠は楠木正成・新田義貞・名和長年・菊池武時らと同じだから、顕家を祭る神社にもしかるべき社格を定めるべきではないか、という内容の伺を同じ年の11月20日に内務省に出した。

内務省は3年後の明治14年(1881)11月16日に北畠顕家と北畠親房の二人を祭神とする別格官幣社の阿部野神社を阿部野村に創建する方針を固め、それが明治15年(1882)1月24日に太政官の正式決定となった。これにより、社格と名称が定まったが、墓所に記念碑をたてる案は取り止めになった。

一方、大阪で創建を進めていた有志は、参拝に便利な天王寺村字天下茶屋に神社を建てるつもりで寄付金を集めて土地の購入に着手していたので、阿部野村に建てる決定を知り、東城ら12人は、土地を寄付するので社殿建築を有志に任せてほしいと3月22日に大阪府知事建野郷三に申し入れた。

その後、天下茶屋の予定地は民家のそばで低湿だとわかり、近くの丘に変えることを有志のうちで議決し、6月2日に伊藤祐暉ら6名が大阪府知事に両地の図面を差し出した。大阪府も実地検分の上同意し、住吉郡住吉村藪山への変更を内務省に上申した。

翌明治16年(1883)、内務省は阿部野神社の宮司と東京で面談した上で、人民の願い通りにするのがよかろうと賛成し、3月7日に太政官が変更を決定した。

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摂社・末社に、御魂振之宮、勲之宮、祖霊社、旗上稲荷社、土宮、旗上芸能稲荷社がある。また、お百度参りの石が各所にあった。

境内西側に大きな鳥居があったが、門は閉まっていた。祭事のときに使うのだろう。上の稲荷社のところから境内に入れるようになっていた。

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四條畷神社

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しじょうなわてじんじゃ。大阪府四條畷市にある。

建武中興十五社。旧別格官幣社。

ご祭神は、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行(まさつら)を主祭神としている。

父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれている。

父の正成ともども明治維新の尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして明治9年(1876)に従三位、明治30年(1897)に従二位が追贈された。

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ご祭神は楠木正行(主祭神)のほか、以下の楠木一族の将士24柱を配祀している。

楠木正時、楠木正家、楠木正家子息 和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、和田紀六左衛門子息 大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息 金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息 河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部。

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河内国讃良郡南野村字雁屋の地に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。

明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公と呼ばれ崇敬の対照となった。

それに伴い、明治11年(1878)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。

同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、明治22年(1889)12月16日に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、明治23年(1890)に住吉平田神社の南隣の地に創建した。

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社殿。

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忠孝両全の像。父正成が子の正行に諭す場面。

忠孝両全は君主への忠義と両親への孝行のどちらも果たすことで、君主へ忠義を尽くすことと、両親へ孝行することは全く別のものだが、どちらも両立させるという意味である。

 

当社の創建以降、明治28年(1895)に浪速鉄道が大阪市中心部から四條畷駅まで開業したことで四條畷神社周辺は栄えたそうだ。

所在地の讃良郡甲可村(南野村ほか6ヶ村合併)では「四條畷」と付く施設が次第に増え、「四條畷」が甲可村の別称のようになっていき、昭和7年(1932)に甲可村は四條畷村に改称し、これが現市名にまで継承されている。

つまり、当社創建の5年後に鉄道駅が開業し、社号に因んで駅名がついたことで、地名も変わったということだ。

 

参拝に当たり、車で行ったら、大阪の市街地や商店街の細い道ばかりを走ることになった。ようやく着いたら駐車場がなくて、再度街中の一の鳥居の近くまで戻って、タイムスの駐車場に停めてから、てくてく参道を歩いてきた。じつは境内にも数台停められる駐車場があるのだけど、それは車のお祓いをする人のためのものだった。

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2015年9月23日 (水)

井伊谷宮

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いいのやぐう

静岡県浜松市北区引佐町の井伊谷(いいのや)にある。

旧官幣中社。建武中興十五社。

ご祭神は宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、応長元年(1311)−元中2年/至徳2年8月10日(1385.9.14)。※没年は諸説あり。

宗良親王は後醍醐天皇の第四皇子で、母は二条為子である。一品中務卿。

同母兄弟に尊良親王、異母兄弟に護良親王、懐良親王、義良親王(後村上天皇)などがいる。信濃の宮、大草の宮、幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。

天台座主だったが、還俗して南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した。

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建部中興十五社なので創建は新しく明治時代である。

明治天皇は自ら執政を行なった建武天皇を理想としていたことから、明治初期に各地で建武中興に尽力した人々を祀る神社が創建された。

彦根藩の知藩事(藩知事のこと)であった井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年(1869)にその手伝いをするよう命じられた。

井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で没したと伝えられていた。

翌明治3年(1870)春に神社は完成し、当初は宗良親王御社と称したようだが、明治5年(1872)1月23日に井伊谷宮に改称となった。同年2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた。

初め社格がなく、神官を置かず、宮内省式部寮の役人が祭祀を執行していた。明治6年(1873)6月9日に白峯宮(白峯神宮)、鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた。

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宗良親王は歌人としても優れていた。母方の二条家は歌道の家であり、幼い頃から和歌に親しみ、歌人としても有名だった。彼が南朝側歌人の和歌を集めて編集した和歌集は当初私的なものであったが、長慶天皇が勅撰集に准ずるよう命じ、弘和元年/永徳元年(1381)に『新葉和歌集』として完成した。

当社の神紋である李花紋は、宗良親王の歌集の題名『李花集』に因んでいる。

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井伊谷は宗良親王が元中2年(1385)8月10日に73歳で歿した地と伝えられ(他説あり)、当社の社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。立ち入り禁止である。

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花火の奉納を行なっているようで、筒が置かれていた。

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2015年1月25日 (日)

藤島神社

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ふじしまじんじゃ

旧別格官幣社。建武中興十五社の一社。

ご祭紳は、南北朝時代の武将である新田義貞公を主祭神とし、義貞の子の新田義顕、新田義興、新田義宗、弟の脇屋義助、および一族の将兵を配祀する。

創建は、万治元年(1660)、福井藩主の松平光通が義貞公の兜が発見された場所に「新田義貞戦死此所」の碑を建て、その場所が新田塚と呼ばれるようになったことに始まる。

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新田義貞は延元3年(1338)、灯明寺畷(現・福井市新田塚町)で戦死した。約300年後の明暦年間(1655~58)に、同地から農民によって兜鉢が発掘され、これが福井藩の軍学者の鑑定の結果、新田義貞の兜であるとされた。

万治元年(1660)、福井藩主の松平光通は兜が発見された場所に「新田義貞戦死此所」の碑を建て、その場所は新田塚と呼ばれるようになった。

明治3年(1870)、福井知藩事・松平茂昭は新田塚に祠を建てる。これが明治9年(1876)、「藤島神社」と名付けられ、別格官幣社に列することとなった。

明治14年(1881)には福井市牧の町に遷座し、明治34年(1901)5月に現在地に再度遷座した。現在の境内は兜の発見地から南へ3kmほど離れているという。

現在の社地は福井市内の足羽山にある。

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境内で採れた梅から作った梅干しを購入。300円。

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2015年1月18日 (日)

鎌倉宮

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かまくらぐう。大塔宮(おおとうのみや)とも呼ばれる。

官幣中社。建武中興十五社。神社本庁の包括下には当初より入っておらず、単立神社である。
 
ご祭神は護良親王(もりながしんのう)。護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現した。しかし、その後、足利尊氏と対立し、足利方に捕えられ東光寺に幽閉された。
 
建武2年(1335)、中先代の乱の混乱のなか、尊氏の弟直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺された。東光寺は処刑場に隣接しており、のちに廃寺となった。
 
明治2年(1869)2月、明治天皇が護良親王を祀る神社の造営を命じ、6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。明治6年4月16日、明治天皇が鎌倉宮を行幸、6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

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後醍醐天皇は建武の新政により、武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとした(建武の中興)。明治維新もまた江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立したものであり、明治天皇は建武の中興を高く評価した。

建武中興十五社は、それに関った人々を祀る神社であり、明治天皇が造営を命じたり、関連の地域からの請願により造営されたりした。

ご祭神が天皇の場合は官幣大社(吉野神宮の一社のみ:後醍醐天皇)、親王の場合は官幣中社(四社)、臣下の場合は別格官幣社(十社)である。楠正成公を祀った湊川神社もそのひとつ。

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2014年3月30日 (日)

八代宮

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やつしろぐう。

官幣中社。建武中興十五社のうちのひとつ。

ご祭神は、後醍醐天皇の皇子で、征西将軍としてこの地で足利軍と戦った懐良親王である。

懐良親王没後に征西将軍職を継いだ良成親王を配祀する。

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八代城址にある。

明治維新後、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こり、八代は懐良親王の墓所があったため、住民から懐良親王と良成親王を祀る神社を八代城趾に創建し、鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が数回なされた。

これを請け明治13年(1880)に太政官が熊本県に創立を命じた。

 

霧島神宮から120km程度なので、もし14時までに霧島神宮を発てたら、そのまま自動車でお参りして、また鹿児島に戻ってもいいなと思っていた。

レンタカーの契約は20時までだし、新幹線は22時台もあるので時間的には充分可能である。

でも、予想外に時間に余裕ができたので、それはしないで、レンタカーを早めに返してしまい、新幹線で八代まで行くことにした。鹿児島中央から新八代までは1時間くらいなので、15時に乗車できれば、間に合う可能性がある。

ポイントは社務所が開いている時間に間に合うかどうかである。神社にもよるけど、16時を過ぎると片付けを始めるところも多い。

まあ、間に合わなかったら、それはそれでいいのだけれど、この日は博多泊で、どうせ最後は博多に向かうのでそのほうが身体が楽だ。

結局、鹿児島中央駅を15時2分に乗り、新八代駅には15時45分くらいに着いた。タクシーで八代宮に行き、お参りを済ませた。

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2014年3月24日 (月)

湊川神社

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みなとがわじんじゃ

旧別格官幣社。建武中興十五社のひとつ。

ご祭神は、楠正成公(大楠公)である。

正行(まさつら)卿(小楠公)、正季(まさすえ)卿以下一族ほかを配祀する。

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大楠公は歴史上有名な武将なので、その生涯については省略する。

後醍醐天皇と縁の深い人物であり、忠義の人である。

さて、明治維新の前後、多くの志士たちが新しい日本の国づくりを思い、墓前に詣でつつ国事に奔走した。幕末から維新にかけては正成公景仰の気運が高まり、正成公の御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになったという。

明治元年(1868)、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、千両を下賜した。翌年、御墓所、殉節地を含む7,232坪(現在は7,666坪)を境内地と定め、明治5年(1872)、湊川神社が創建された。

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立派な境内だった。地下鉄の駅がすぐそばにあり、地下駐車場がある。

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2014年3月15日 (土)

吉野神宮

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よしのじんぐう。

旧官幣大社。建武中興十五社の一社。

ご祭神は後醍醐天皇である。

創建は明治25年。

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後醍醐天皇が延元4年(1339)に崩御した後、後村上天皇はその像を吉水院に安置し、以後仏教式の供養が行われていた。

明治時代に入り神仏分離令により明治6年(1873)に吉水院を後醍醐天皇社という神社に改めた。2年後に吉水神社と改称し、後醍醐天皇を祭神とする神社となった。

明治22年(1889)に、明治天皇は後醍醐天皇を祀る官幣中社吉野宮の創建を決定した。明治25年(1892)に社殿が竣工し、吉水神社から後醍醐天皇像を遷座。明治34年(1901)に官幣大社に昇格し、大正7年(1918)に吉野神宮に改称した。

 

建武中興十五社とは、 明治天皇が高く評価した後醍醐天皇の建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社のことである。皇族を祀る神社は官幣社、武将は家臣なので武将を祀る神社はすべて別格官幣社である。

こちらで『南朝関係十五神社巡拝案内紀』なる冊子(500円)を入手した。巡拝用にご朱印が押印できるページがついている。

 

吉水神社や吉野水分神社、金峰神社などもお参りしたかったのだが、早々と諦めて次回の機会にお参りすることにした。吉野は観光地なので渋滞がありそうだし、駐車場の問題もある。本当は桜のシーズンを外したほうがよいのだが。

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2014年3月 2日 (日)

金崎宮

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かねがさきぐう

旧官幣中社。

ご祭神は、尊良親王(たかながしんのう)、恒良親王(つねながしんのう)。それぞれ、後醍醐天皇の一の宮と皇太子である。

創建は明治で、新しい神社である。

同23年に敦賀の人々の請願で、尊良親王を祭神に、官号を金崎宮として官幣中社に加列された。25年、恒良親王を合祀。26年に勅旨参同の上、鎮座祭、奉告祭が執行された。

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金ヶ崎城は歴史の舞台になったところである。

延元元年(1336)、足利尊氏が九州で再度挙兵し京都に攻めると、後醍醐天皇は比叡山に難を避けたが、尊氏の請で京都に還幸した。その一方で新田義貞に命じて、両親王を奉じて、北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向させた。

金ヶ崎城は気比神宮の大宮司気比氏治の居城であり、両親王が拠られたところである。

尊氏は六万の兵で陸海から攻め、延元2年落城した。尊良親王は戦死、恒良親王は脱出するも捕らえられ、京都に幽閉されたあと毒殺された。

摂社の絹掛神社はこの戦で殉難した三百余人の将士が祀られている。

もうひとつの舞台は元亀元年(1570)に起こった織田信長の朝倉氏攻めである。金ヶ崎の戦いで山内一豊が活躍した話は『功名が辻』に出てくる。また、『利家とまつ』にも「金ヶ崎の退き口」の話が出てくる。両方ともNHKのドラマになったので、観光資源になっている。

末社の朝倉神社には朝倉氏六代と一子が祀られている。

 

気比神宮とも近いのだが、なかなか寄れず、今回初めてお参りした。

境内の桜はまだ蕾で、今年の開花はいつ頃になるかわからないそうだ。

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