【一宮制】

2016年12月25日 (日)

杉山神社(横浜市緑区)

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すぎやまじんじゃ 公式サイト(なし)

横浜市緑区西八朔町にある。JR横浜線の十日市場駅より徒歩約13分、中山駅北口よりバスで約6分。

式内社論社。武蔵国六宮。

横浜市内で唯一の式内社である「杉山神社」の論社の一つ。

武蔵国六宮として大國魂神社のくらやみ祭に参列しており、武州六大明神の一つとされている。

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ご祭神は、主祭神に五十猛命を祀り、 大日霊貴命・素戔嗚尊・太田命を配祀している。

南北朝時代中期に成立した『神道集』第三巻に「武蔵六所大明神事」があり、当時は椙山大明神(すぎやまだいみょうじん)と称して、本地仏を大聖不動明王としていた。

文化・文政期に編まれた『新編武蔵風土記稿』は、江戸時代には神体が不動明王の立像であったという。

『続日本後紀』には「枌山神社」(すぎやまじんじゃ)とあり、延喜式神名帳には「武蔵国都筑郡唯一の官社」として杉上神社の名が記載されている(ただし論社は複数存在する)。

また、大國魂神社の六所明神の一所として祀られている。

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創建時期は不明である。

当社に残る棟札や別当寺である極楽寺(現在も隣地に所在)の墓碑年号より当社は延宝年間(1673 - 1681)に現地へ遷座したものと考えられており、これ以前には西北方300mの山麓に鎮座していた。

『武蔵風土記』によると、慶安2年(1649)8月に徳川幕府より朱印状と朱印領5石6斗が与えられた。

この他、当社は江戸時代に「六ノ宮」とも称されていた。

明治6年(1873)12月に郷社に列格し、明治43年(1910)には付近の無格社、神明社など4社を合祀した。

大正9年(1920)9月、神奈川県告示第三六二号により神饌幣帛料供進神社に指定された。

昭和28年(1953)8月には神奈川県指令第三九九〇号により、「宗教法人杉山神社」として認証された。

現在の社殿は昭和57年(1982)11月に改築されたものである。

 

当社が『続日本後紀』あるいは延喜式神名帳(式内社)の論社であると説いたのは、幕末に大國魂神社の宮司であった猿渡盛章であり、栗田寛『神祇志料』や『大日本史神祇志』などでも有力とされている。

しかし、杉山神社(または杉山社、椙山神社)という名称の神社は都筑郡(横浜市北部)と周辺に数十社あり、いずれが正しいかは不明である。『新編武蔵風土記稿』(1810 - 1830)によると、杉山神社は関東地方四郡に七十数社在ったという。それらの多くは、日本武尊か五十猛命のいずれかまたは両方を祭神としている。

有力な論社としては当社の他に港北区新吉田町、都筑区茅ケ崎中央、都筑区中川六丁目などの社も挙げられている。当社も他の多くの論社と同様、鶴見川水系(恩田川)沿いの高台に鎮座している。

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新しい社号標の前の道路を越えて進むと、古い社号標があった。鳥居はなかったが、参道はこの辺りからなのだろう。

境内社

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稲荷神社

社殿右側にある。

社殿の左側にある小祠は確認しなかった。

※以上、文章はWikipedia、リーフレット、境内案内板を抜粋・加筆・編集

当社への参拝で、大國魂神社(東京都府中市)に祀られている武州六大明神のすべてにお参りできた。

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2016年6月 9日 (木)

穂高神社

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ほたかじんじゃ。長野県安曇野市穂高にある神社。

式内社(名神大社)。信濃国三宮。旧国幣小社。現在は神社本庁の別表神社。

安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、松本市安曇の上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があることから、「日本アルプスの総鎮守」の通称がある。

毎年9月27日に行われる例大祭(御船祭)が有名である。

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ご祭神は次のとおり。

中殿:穂高見命(ほたかみのみこと)。別名を「宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)」。綿津見命の子。

左殿:綿津見命(わたつみのみこと)。 海神で安曇氏の祖神。

右殿:瓊々杵命(ににぎのみこと)

 

別宮:天照大御神(あまてらすおおみかみ)

若宮:安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)

若宮相殿:信濃中将(しなのちゅうしょう) - 御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる。

 

穂高神社一帯は古来より安曇氏(あづみし/あずみし、阿曇氏とも表記)の定着地とされる。

『新撰姓氏録』には安曇氏に関連する記載として以下の3条が知られる。

右京神別 安曇宿禰条 - 海神綿積豊玉彦神の子の穂高見命の後。

右京神別 凡海連 - 海神綿積命神の男の穂高見命の後。

河内国神別 安曇連 - 綿積神命の児の穂高見命の後。

穂高神社祭神を「穂高見命」と見る説は、社名とこれらの条との関係づけによる。

なお、『古事記』神代記には、ワタツミ(綿津見神・綿積神)の子で阿曇氏の祖として「宇都志日金拆命」の記載があり、穂高神社側ではこれを穂高見命の別名としている。

ワタツミの子には他に、ヒコホホデミの妻・トヨタマヒメや、ウガヤフキアエズの妻で神武天皇の母・タマヨリビメがいる。

一方で、社名「穂高神社」はあくまでも「穂高の神の社」または「穂高に坐す神社」の意に過ぎないとの指摘もある。

なお、祭神は古くは一座であったが(『延喜式』神名帳)、中世に大宮・南宮・若宮の三殿とし、天文18年(1549)の文書では「五所大明神」と五所(祭神不詳)を称してもいる。

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創建は不詳。当地は安曇郡の郡域にあり、定着した安曇氏によって当郡が建郡されたと見られている。そしてその安曇氏によって祖神が祀られたのが創祀とされる。

安曇氏とは海人の一族で、福岡県志賀島の志賀海神社が発祥地とされる。 安曇氏は北九州を中心として栄え、その活動範囲を東方へも広げていったとされる。当郡への定着は、信濃における部民制や当地の古墳の展開から6世紀代と推定されている。その要因には蝦夷地域開拓の兵站基地として、ヤマト王権からの派遣が考えられている。

安曇郡の式内社には他に川会神社があるが、こちらでも安曇氏系の綿津見神が祭神とされている。

穂高神社の西方には多くの古墳が築かれているが、穂高神社付近は神域として避けられたと考えられ、穂高神社一帯が勢力の中心地域であったと見られている。

なお、当郡における安曇氏の初見は、「正倉院御物布袴墨書銘」の天平宝字8年(764)である。ただしここには「安曇部」の記載しかないため、あくまでも安曇氏の部曲(かきべ)が当地に設置されたに過ぎないという考えもある。

文献の初見は、天安3年(859)2月11日に「宝宅神」に対して従五位下から従五位上への神階昇叙がなされたという記録である。

『延喜式』神名帳では信濃国安曇郡に「穂高神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また、天正13年(1585)に記された『三宮穂高社御造宮定日記』に見えるように、信濃国三宮を称していた。

中世以来安曇郡一帯を治めた国人領主仁科氏が滅亡すると、安曇郡は松本城主の所領とされ、天正10年(1582)に同城主となった小笠原貞慶は神領として土地を寄進し、小笠原秀政からは累代受け継いで式年の遷宮や祭祀の厳修に努めた。

古くは諏訪大社の影響もあり、『定日記』によれば境内には諏訪神を祀る南宮があり、御柱を立てる習慣もあった。また仏教の影響も強く、文書によると中世には境内に神宮寺があり、江戸時代には本殿の西南に薬師堂があり本堂としていた。

文禄年間(1592-1596)には穂高神社に15石、神宮寺に3石の朱印が安堵されている。 神職は、古くは安曇氏だったと見られるが、中世には大伴氏が務め、のちには仁科氏に代わっている。

明治に入ってからは、明治5年(1872)に近代社格制度において郷社に列格、明治15年(1882)に県社、昭和15年(1940)に国幣小社に昇格した。

神階は、天安3年(859)2月11日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) 。表記は「宝宅神」。

本宮(里宮)の本殿は形式の等しい右殿・中殿・左殿が並ぶ三殿方式で、この三殿と規模の小さい神明社が一直線に並ぶ。

このうち中殿には、穂高神社だけに伝わる独特の形式の「千木(ちぎ)」と「勝男木(かつおぎ)」が乗せられている。勝男木は釣竿または船の帆柱を表していると言われ、この形式は「穂高造」といわれる。

式年の遷宮祭では、『定日記』に定められた方式で社殿の造替・配置替が行われる。

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境内では、拝殿の前に神楽殿が立ち、その右手に若宮社と境内社数社が鎮座している。

そのほか、手洗石と手水舎、神橋が安曇野市指定文化財に、大門の欅と若宮西の欅が安曇野市指定天然記念物に指定されている。

天保14年(1843)の『善光寺道名所図会』には穂高神社が載せられており、当時の境内の様子がうかがわれる。

※以上、文章はWikipedia、公式ホームページ、当社冊子を抜粋・編集

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穂高霊社

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八王子社(左)、菅原社(中)、歌神社(右)

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阿曇比羅夫之像

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安曇野は素朴な石神「道祖神」が多く祀られている。

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縁結びの道祖神

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健康長寿道祖神像

長野県が平成25年に平均寿命(男女とも)が全国一の長寿県になったことを記念に建立。

日本一の道祖神。ステンレス製。

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沙田神社

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いさごだじんじゃ。長野県松本市島立三ノ宮にある。

式内社。信濃国三宮。旧県社。

神紋は「三階菱」。

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ご祭神は以下の3柱。

彦火火見尊 (ひこほほでみのみこと)

豊玉姫命 (とよたまひめのみこと)

沙土煮命 (すいじにのみこと)

この3神は穂高系の神(海神系・天津神系)と見られているが、当社は御柱を建てる諏方神社系の祭祀(後述)も行なっているという。

なお、祭神を景行天皇皇子の五十狭城入彦命と伝える説もある。

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創建は社伝によると、古くは筑摩郡鷺沢嶽(現 松本市波田鷺沢)に鎮座していたという。

大化5年(649)6月28日、信濃国司が勅命を奉じ初めて勧請して創祀した。その後、大同年間(806-810)に坂上田村麻呂が有明山の妖賊討伐にあたって、本社の神力が効したとして国司と共に社殿を造営したと伝える。

以上の伝承から、当社は波田から流れ出る梓川の水霊を祀ることに始まったと見られ、鷺沢の旧跡地と伝わる地、梓川上流の沢の1つを登った地に当社の奥社(石祠)として立っているそうで、鷺沢嶽には「斎殿石(さいでんせき)」という巨岩があるという。今回は確認しなかった。

現在の本社は梓川の水を引き入れた古代条里的遺構の上にあり、当地開発当初からの古社であるとも推定されている。

境内からは土器・石器のほか、古墳時代の鉄鍬、中世・近世の薙鎌が出土し、神宝とされている。

社伝によると、仁寿元年(851)に勅評によって社の造営があり、仁寿3年(853)には二条大納言有季を勅使として神位を賜ったともいう。

延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では信濃国筑摩郡に「沙田神社」と記載され、式内社に列している。

なお、『日本三代実録』貞観9年(867)3月11日条に載る「梓水神」を当社にあてる説もある。

鎌倉時代後期には、元亨(1321-1323)から正中(1324-1325)の戦火により社殿が焼失し、本社のみ残ったという。

その後、島立右近が松本城を築くとともに、その産土神として当社を補修した。松本城主は代々当社を裏鬼門除けとして重視し、神領を寄進した。当社が松本城に向かって東面しているのは、その鎮護のためとされる。

また、当社は信濃国三宮と見られ古くから「三の宮」と呼ばれていたという。現在も地元には「産の宮」の呼称があり、安産の神としても崇められている。

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拝殿・本殿の左側に子安社がある。

明治5年(1872)に近代社格制度において郷社に列し、明治34年(1901)には県社に昇格した。明治40年(1907)には神饌幣帛料供進社に指定された。

 

当社では、式年御柱祭(山出式:4月中の酉の日、曳廻:例祭当日)は6年に1度、卯年と酉年の例大祭に合わせて行われる。

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上の写真は境内右側から仮殿(左)と拝殿(右)を写したもので、仮殿の手前と奥に御柱が立っている。一の御柱と二の御柱である。写真には写ってないが本殿の左側と右側にそれぞれ三の御柱、四の御柱が立っている。

御柱祭では、4本の御柱を波田の旧松本藩が所有していた「御林」から伐り出して、国道158号沿道を曳き出す。

御柱立ては一の柱が中村・三ノ宮村、二の柱が島立町村・永田村、三の柱が大庭村・小柴村、四の柱が荒井村・堀米村と、いずれも中世の島立郷の郷村が担当した。

松本盆地の他の御柱祭と異なり、諏訪大社の形式で行われ、史料で確認できる最も古い例は正徳3年(1713年)である。昔から「人を見るなら一之宮(諏訪大社)、綺羅を見るなら二之宮(小野神社)、衣装見るなら三之宮」と言われ、各柱毎に衣装を凝らしてある。松本市から無形民俗文化財に指定されている。

参考:島立沙田神社の御柱祭り(松本市文化財ホームページ)

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参道の左側に蚕玉社があった(奥は社務所)。

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境内の右隅に金網に囲われて秋葉神社ほか境内末社があった。

※以上、文章はWikipediaの記載内容を抜粋・編集

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2016年5月15日 (日)

二宮神社(あきる野市)

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にのみやじんじゃ。東京都あきる野市二宮にある。

武蔵国二宮。旧郷社。

別称は「小河神社(おがわじんじゃ)」。古くは「小河大明神」または「二宮大明神」とも称された。

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ご祭神は国常立尊 (くにとこたちのみこと)を祀っている。

創立年代は不詳である。

『和名抄』に記されている武蔵国多摩郡小川郷の鎮守であり、「小河大明神」とも称された。地名の元になった小川氏は日奉(ひまつり)氏から出て、のちに小川姓を名乗った。

当社は武蔵国の二宮であったとされ、『神道集』『私案抄』にみられる「武州六大明神」の一角に数えられているが、六社のうち唯一式内社でない。

現在も武蔵国総社・六所宮(現 大國魂神社)の一座に祀られていて、周辺の地名も「二宮」と称されている。

古い記録によると、藤原秀郷が生国の山王二十一社中の二宮を崇敬する縁故をもって特に当社を崇敬し、天慶の乱に際し戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営した。

源頼朝、北条氏政の崇敬も篤く、ことに北条氏照は滝山城主となって、同氏の祈願所とした。のち、神殿・神宮宅は罹災し、記録の大半が焼失した。

一方、鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重が城館を構え、5代にわたって居城としたとの記録がある。

この「二宮城」の所在を探るため、昭和47年(1972)に二宮神社境内の一角が発掘調査されたが、関係する資料を得ることはできず否定された。

しかし、この発掘調査では、寺院に関係する小型の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見され、新たな謎を呼んでいる。特に、薬師如来像は小河大明神の御正体と推測されている。

天正19年(1591)、徳川家康より代々15石の御朱印地とされ、以後、代々継承されてきた。現在の本殿は、江戸時代に建立されたといわれる。

明治3年(1870)、現社名に改称した。

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荒波々伎社

足神様、門神様とも言われ、日本の原始信仰を残す神、健足長寿の神である。

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諏訪神社(おすわ様)

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五社(伊勢・八幡・天王・天神・稲荷の五社を合祀)

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稲荷社

五社の左後方にある。

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社宮社(おしゃもじ様)

咳や風邪の神を祀る。境内でなく、御手洗池の畔にある。

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御手洗池(みたらしいけ)

どんな干天でも涸れたことのないお池だそうで、水の透明度も高く、よく整備されていた。

※以上、当社由緒書きを抜粋・編集

 

4月4日に参拝した際、ご神職は不在だったが、御朱印を受け付ける日が社務所の窓口に掲示されていて、4月は第2・第3日曜日だった。境内の見落とした場所の確認も含め、5月の第3日曜日に再度お参りしたところ、社務所の前に数人、御朱印待ちの人の姿が見えたので、受け付けの該当日だった。

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2016年5月 1日 (日)

氷川神社

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ひかわじんじゃ。埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある。

式内社(名神大社)。武蔵国一宮もしくは三宮。勅祭社。

旧官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。

宮中の四方拝で遥拝される一社。

東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社。

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神社の境内は江戸時代中期まで存在した広大な見沼の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている(現在の神池は見沼の名残である)。

埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布する。

富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。

また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。

地名の「大宮」は当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する。

埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は平成20年(2008)以降、連年200万人以上が訪れている。

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ご祭神は、主祭神に以下の3柱を祀る。

 須佐之男命 (すさのおのみこと)

 稲田姫命 (いなだひめのみこと)

 大己貴命 (おおなむちのみこと)

しかし、祭神は変遷しており、議論されてきた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』では一座として記載されている。

・日本武尊の東征時、須佐之男命を勧請したとする説(吉田兼永)

・須佐之男命とする説(『大日本神祇史』)

・男体社:須佐之男命(相殿に伊弉諾、日本武尊、大己貴)、女体社:奇稲田姫命(相殿に天照太神宮、伊弉冉、三穂津姫、弟橘媛)、簸王子社:大己貴とする説(『風土記稿』)。

・男体社:伊弉諾、女体社:伊弉冉、簸王子社:軻遇突智とする説(『大宮氷川太明神縁起之書』)。

近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。

三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、江戸時代の元禄12年(1699)三社・三社家を同格とする裁定が下った。

現在の祭神は、天保4年(1833)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。

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創建は社伝によれば、第5代孝昭天皇3年4月の創建されたという。

『国造本紀』では、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。

成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。

社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。

氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。

このアラハバキ社は氷川神社の地主神である。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので、先住の神がアラハバキとみられる。

このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。

『日本三代実録』には神階授与の記載があり、古来から朝廷から崇敬された。平安時代中期の『延喜式神名帳』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、名神大社に列している。また武蔵国の一宮または三宮とされ、国司からも崇敬を受けた。

平安時代後期には、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。

治承4年(1180)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197)には神馬神剣を奉納している。

徳川家康が関東に入ると、文禄5年(1596)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。

江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、寛永5年(1628)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。

寛文7年(1667)3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立した。

明治元年(1868)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った 。

以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。

明治天皇は明治3年(1870)にも再度参拝された。

昭和天皇も皇太子時代の大正6年(1917)11月12日、天皇に即位した昭和9年(1934)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝され、昭和42年(1967)10月に夫妻で参拝された。

今上天皇も皇太子時代の昭和38年(1963)に参拝され、昭和62年(1987)7月と天皇に即位した平成5年(1993)5月には夫妻で参拝された。

明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(現 さいたま市北区日進町)へ退転した。

また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備された。

明治15年(1882)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに昭和15年(1940)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。

また、昭和4年(1929)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。この招魂社は昭和14年(1939)3月に分離して埼玉県護国神社となり、同4月には国指定護国神社となった。

昭和41年(1966)7月22日に明治神宮の大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大級))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が昭和50年(1975)に竣功。落雷した鳥居は移設され、昭和51年(1976)4月5日に氷川神社に竣功された。これが現在、さいたま市立大宮図書館前にある二の鳥居である(当ページ最初の写真)。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。

昭和57年(1982)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている。

神階の変遷は以下のとおり。

貞観元年(859年)1月27日、従五位下から従五位上
貞観5年(863年)6月8日、正五位下
貞観7年(865年)12月21日、従四位下
貞観11年(869年)11月19日、正四位下
元慶2年(878年)12月2日、正四位上

いずれも『日本三代実録』に「武蔵国氷川神」と記載。

※以上、文章はWikipediaから抜粋・編集

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2016年4月30日 (土)

一宮巡拝一覧

2013年のGWに観光で出雲大社や神宮、熊野三山に初めて訪れたことを契機に、神社への巡拝を始めた。

始めてみると一宮(いちのみや)への参拝が多いので、まずはwikipediaの「一宮」の項目に掲載されていた表を参考にお参りすることにした。

※印は参拝した時間などの問題で、ご朱印をいただかなかったお社、▲印は山の頂上や海上などにある本宮・奥宮・奥社にまだお参りしていないお社。
     

<畿内(五畿)>

山代国 加茂別雷神社  加茂御祖神社
摂津国 住吉大社  坐摩神社
大和国 大神神社▲ 
和泉国 大島神社
河内国 枚岡神社  片埜神社 

<東海道> 

伊賀国 敢国神社
伊勢国 椿大神社  都波岐奈加等神社
志摩国 伊雑宮(神宮内宮別宮)  伊射波神社
尾張国 真清田神社  大神神社
三河国 砥鹿神社
遠江国 小国神社  事任八幡宮
駿河国 富士山本宮浅間大社
伊豆国 三嶋大社
甲斐国 浅間神社
相模国 寒川神社   鶴岡八幡宮
武蔵国 氷川神社中山神社※・氷川女体神社  小野神社
安房国 安房神社  洲崎神社
上総国 玉前神社
下総国 香取神宮
常陸国 鹿島神宮

東山道> 

近江国 建部大社
美濃国 南宮大社
飛騨国 飛騨一宮水無神社
信濃国 諏訪大社(上社本宮・前宮、下社春宮・秋宮)
上野国 一之宮貫前神社
下野国 宇都宮二荒山神社  二荒山神社(日光)▲
陸奥国 鹽竈神社・志波彦神社  都都古和気神社(八槻)
      都都古別神社(馬場)  石都々古和気神社
出羽国 鳥海山大物忌神社(蕨岡口、吹浦口)
   

<北陸道> 

若狭国 若狭彦神社・若狭姫神社
越前国 氣比神宮
加賀国 白山比咩神社▲  石部神社
能登国 気多大社
越中国 射水神社  気多神社  高瀬神社
     雄山神社(前立社檀、中宮祈願殿※)▲
越後国 彌彦神社▲  居多神社  天津神社
佐渡国 度津神社
  

<山陰道>

隠岐国(隠岐島)の2つが残っている。

丹波国 出雲大神宮
丹後国 元伊勢籠神社
但馬国 出石神社  粟鹿神社
因幡国 宇倍神社
伯耆国 倭文神社
出雲国 出雲大社  熊野大社
石見国 物部神社
隠岐国  

<山陽道> 

播磨国 伊和神社
美作国 中山神社
備前国 吉備津彦神社  石上布都魂神社▲  安仁神社
備中国 吉備津神社
備後国 吉備津神社  素盞嗚神社
安芸国 厳島神社
周防国 玉祖神社
長門国 住吉神社

<南海道>

紀伊国 日前神宮・國懸神宮  丹生都比売神社
      伊太祁曽神社
淡路国 伊弉諾神宮
阿波国 大麻比古神社
      上一宮大粟神社※  一宮神社※  八倉比売神社
讃岐国 田村神社
伊予国 大山祇神社
土佐国 土佐神社

<西海道>

宮崎、屋久島に1つずつある。

筑前国 筥崎宮   住吉神社
筑後国 高良大社
豊前国 宇佐神宮
豊後国 柞原八幡宮  西寒多神社
肥前国 與止日女神社   千栗八幡宮
肥後国 阿蘇神社
日向国
大隅国 鹿児島神宮
薩摩国 新田神社   枚聞神社
壱岐国 天手長男神社   興神社
対馬国 海神神社   厳原八幡宮
多禰国  

ここまでが令制國五畿七道の一宮やその論社、一宮争いをした神社で、 

 
<新一の宮>

全国一の宮会が設け、認定する呼称で6社ある。北海道、青森、沖縄の3つが残っている。

蝦夷国
津軽国
陸中国 駒形神社
岩代国 伊佐須美神社
知知夫国 秩父神社
琉球国  

<北海道内の一宮>

渡島国(2社)
石狩国
北見国

十勝国
釧路国

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2016年4月22日 (金)

二宮神社(船橋市)

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にのみやじんじゃ。千葉県船橋市三山にある。

式内社論社。下総国二宮。旧郷社。 古くは「三山明神」、「二宮明神」とも称した。

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ご祭神は、建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと)

櫛稲田比売命 (くしなだひめのみこと)

大国主命 (おおくにぬしみこと)

藤原時平命 (ふじわらのときひらのみこと)

大雀命 (おおさざきのみこと)近隣の無格社・若宮八幡神社を合祀

誉田別命 (ほんだわけのみこと) 摂社・阿波八幡神社を合祀

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創建は、社伝によれば、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅命によるという。平安時代中期の『延喜式』神名帳には「下総国千葉郡 寒川神社」の記載があるが、当社はその論社とされている。

また、下総国の二宮として朝廷からの崇敬をうけたという(ただし旭市の玉崎神社も二宮を称する)。

二宮神社と呼ばれ始めた時期は不明であるが、乾元2年(1303)銘の梵鐘(成田市祥鳳院蔵)に「総州二宮社壇」とあることから鎌倉時代にはすでにこの呼称があったことがわかっている。

また、治承4年(1180)に藤原師経が左遷された際、藤原時平が相殿に合祀されたという。藤原時平は菅原道真の政敵であるため、天神の氏子は当社に参拝しなかったと伝わる。

三山氏が先祖代々神官を務めた。地名同様「三山」の名は古くは「御山」と見え、当社に起因する。

天正19年(1591)には徳川家康から朱印地10石を与えられたほか、江戸幕府将軍からの寄進は幾度にも及んだ。

安政5年(1858)刊の『成田参詣記』では「三山明神社(みやまみょうじんやしろ)」の図の挿絵とともに紹介されている。

明治の近代社格制度で郷社に列した。

また、明治43年に若宮八幡神社と元摂社・阿波八幡神社を合祀した。

古来より「注連下」(氏子の区域)は21・3ヶ村(現在の船橋市東部・北部、習志野市、八千代市、千葉市西部)にまたがる広大な地域に達し、現在でも例祭などで、その影響力を見ることができる。

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現在の社殿は安永年間(1772-1781)に再建されたものである。本殿・拝殿とも屋根は銅板葺であるが、本殿は大正11年(1922)10月に、拝殿は大正14年(1925)に茅葺屋根から葺き替えられた。

この社殿の平面形式は江戸時代に流行した権現造だが、拝殿から幣殿にいたる床面の高さは同じになるようになっている。また、軒の組物及び腰組も当時の正規の宮大工の手法によって意匠と造作がなされている。

昭和53年(1978)10月25日に船橋市の有形文化財に指定された。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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2016年4月18日 (月)

住吉神社(下関市)

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すみよしじんじゃ。山口県下関市一の宮住吉にある。

式内社(名神大社)。長門国一宮。旧官幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

日本三大住吉の一社に数えられる。

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ご祭神は、本殿として連なる第一から第五の5殿のそれぞれに次の神が祀られている。

 第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)

 第二殿:応神天皇

 第三殿:武内宿禰命

 第四殿:神功皇后

 第五殿:建御名方命

大阪の住吉大社が住吉三神の和魂を祀るのに対し、当社は荒魂を祀るとされる。

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創建については、 『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。

延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では長門国豊浦郡に「住吉坐荒御魂神社三座 並名神大」と記載され、三座が名神大社に列している。

創建の由緒から軍事と海上交通の神として厚い崇敬を受け、鎌倉時代に入ると、源頼朝を始め歴代将軍からの社領などの寄進を受けた。戦国時代に一時衰微したが、大内氏、毛利氏からの崇敬を受けて復興し、江戸時代には長州藩主毛利氏によって社殿の修復が行われた。

明治維新後、明治4年(1871)に近代社格制度の国幣小社に列し、明治44年(1911)に官幣中社に昇格した。

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本殿は応安3年(1370)に大内弘世により造営されたもので、昭和28年(1953)国宝に指定された。五つの千鳥破風付き一間社を合の間とともに一列に連ねた九間社流造で、中央の第三殿の前に拝殿がある。

拝殿は毛利元就の寄進により天文8年(1539)造営された切妻造檜皮葺で、昭和29年(1954)重要文化財に指定された。

神階は以下のとおりである。

天安3年(859)1月27日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒魂神」。

貞観17年(875)10月8日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒御影神」。

貞観17年(875)12月5日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒魂神」。

仁和2年(886)11月14日、従四位上から正四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒魂神」。

寛平3年(891)8月21日、正四位下から正四位上 (『日本紀略』) - 表記は「住吉荒御魂神」。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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お参りを済ませ、楼門をくぐり石段を降りてくると、何か雰囲気が違うことに気がついた。

真新しい青銅の狛犬があった。前回のお参りの際、こんなものがあったかどうか記憶にないので案内板の説明書きを見ると、昨年8月に復元されたとある。

住吉神社の狛犬は元々青銅製であったが、軍事物資として戦時徴用されたのだという。戦後70年を期し復元されたのだ。金工だとエッジが効いて、ユーモラスな感じが増すようだ。

 

2回目のお参りになる。レンタカーを借りた新下関駅前に近く、車の返却前にお参りし、今回の巡拝を終えることにした。好きな神社のひとつなので、巡拝行の最後にお参りできてよかった。

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龍王神社

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りゅうおうじんじゃ。山口県下関市吉見にある。

長門国三宮。

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ご祭神は、

玉依姫命、天津児屋根命、大綿津見神、住吉荒魂大神、息長足姫命、誉田和氣命

を祀る。

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大正6年5月、故(もと)郷社・乳母屋神社に故村社・大綿津見神社を合祀して、龍王神社と改称した。

また、尾崎八幡宮、河内神社、貴船神社、稲荷神社を境内に移転、合祀して境内神社とした。

乳母屋神社は第8代孝元天皇の御代に鎮座し、第27代安閑天皇32年に現在地に社殿を建立した。

第43代元明天皇の御代に社殿を再建され、長門国第三鎮守の社と云われた。

主祭神の玉依姫命は綿津見神の御子神にて姉神の豊玉姫の御子を乳母神として育てた神徳により、乳母屋神社という社名となった。

また、故大綿津見神社は古くから龍王社と称された。

景行天皇20年2月初申、龍王山千母○嶽に鎮座し、海神・大綿津見神を上中下三宮に祀った。

神功皇后の征韓の際、この御山に登って大神に祈り、山内屏風谷の大楠をもって軍船を造り、山の峠を越して船出した。その峠を船越と名付けた。

凱旋の際、皇久保濱(現古宿の浜)に上陸し、船具陣具を置き、兵器は岩窟に納め、綿津見神に謝ったと伝わる。

現在、本社の別宮として山頂に上宮、中腹に中宮の社殿がある。

鎮杞市八大竜大神、海上安全、、雨乞いの神として崇拝された。

※以上、文章は参道案内板より抜粋・編集

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2016年4月17日 (日)

速谷神社

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はやたにじんじゃ。広島県廿日市市にある。

式内社(名神大社)。安芸国二宮。旧国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

山陽道鎮護。安芸国総鎮守。

厳島神社、多家神社とともに「安芸国の三大神社」の一社。

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ご祭神は、飽速玉男命 (あきはやたまおのみこと)を祀る。

天孫降臨に附随した32柱の神のうち天湯津彦命の、五世の孫とされる。『国造本紀』に阿岐国造として記載される。

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創建年代は不詳。千七百有余年の古社である。

嵯峨天皇の弘仁2年(811)、名神に列し、清和天皇の貞観元年(859)、従五位上であった神階を従四位下に進め、同9年(867)には従四位上に進める。

醍醐天皇の延喜5年(905)の『延喜式神名帳』には「安芸国佐伯郡 速谷神社 名神大 月次 新嘗」として記載されて名神大社に列し、国家鎮護の神社として毎年月次祭、祈年祭、新嘗祭の三祭に神祇官の奉幣に預かった。朝廷から篤く崇敬された。延喜式所載の安芸国三社(速谷神社、厳島神社、多家神社)の中では、当社だけがこの殊遇をうけ、安芸・備後国はもとより、山陽道でも最高の社格を誇った。

朱雀天皇の承平5年(935)、藤原純友の乱に、朝廷は騒乱の平定を速谷神社など全国十三社に祈願され、まもなくその乱が鎮定したので、神階を正四位下に進められた。

古くは安芸国の一宮であったとされるが、厳島神社が平氏に崇敬されるにつれて当社は厳島神社の摂社に数えられ、安芸国二宮と称されるようになった。

室町時代からは安芸国桜尾城主だった藤原親実以下歴代の城主、戦国大名の大内義隆、毛利元就、さらに広島藩主、浅野光晟以下の歴代藩主らが速谷神社を篤く崇敬して、神宝・社領を寄進し、社殿の造営と修復を行った。

大正13年(1924)近代社格制度において国幣中社に列格。

昭和21年(1946)官制廃止により、神社本庁の別表神社となった。

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神階は以下のとおりである。

弘仁2年(811)7月17日、名神 (『日本後紀』) 

貞観元年(859)正月27日、従五位上から従四位下 (『日本三代実録』)

貞観9年(867)10月13日、従四位上 (『日本三代実録』)

表記はすべて「速谷神」。

 

このように、速谷神社は1700年あまりの歴史を持ち、かつては厳島神社よりも格の高い神社であった。

交通安全祈願の神社として全国的に知られ、「車を買ったら速谷さん」と遠方からの参詣者も多い。広島電鉄のバスや電車が御祓いを受けることでも有名。

山陽道を往来する旅人が長旅の平安を祈願した由来が数多く残っており、今日も山陽道を守る「交通安全の守護神」として尊ばれている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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拝殿右側に笑う狛犬がある。

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