*八幡宮・八幡社

2016年7月16日 (土)

長濱八幡宮

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ながはまはちまんぐう。滋賀県長浜市宮前町にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

日本三大山車祭の「長浜曳山祭」が催される。

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ご祭神は、

東御前:足仲彦尊(仲哀天皇)

中御前:誉田別尊(応神天皇)

西御前:息長足姫尊(神功皇后)

を祀る。

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創建は、平安時代後期(1069)に源義家からの発願をうけた後三条天皇の勅により、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わる。

戦国時代には兵火を受けて衰退したが、長浜城城主となった羽柴秀吉により復興された。

平安時代より境内には別当寺である新放生寺が存在していたが、明治時代初期の神仏分離令により廃され、唯一残された子院の舎那院に仏像や資料等が全て移された。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・編集

境内

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摂社 高良神社

ご祭神である武内宿禰が五代の天皇に仕えたことで長寿の神様とされてきたことから。ぼけ封じの宮とされている。

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高良神社の右に「ぼけ封じの大石」があった。

小さな穴がたくさん開いていた。

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摂社 都久夫須麻神社

市杵島姫神、辨財天(愛敬神)を祀っており、水の女神様である。都久夫須麻神社は琵琶湖の竹生島にある三大辨財天のひとつである。

境内の放生池の中にあり、放生池では毎年8月15日に雨乞いの行事「永久寺の蛇の舞」が奉納される。

蛇は竹と和紙で作られ、全長約10m、胴囲り約1.3mほどの大きなもので、玉龍・竹龍・火龍という3つの出し物があり、蛇が龍に変貌して雨を降らすという水神信仰を背景にしたものである。

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摂社 天満宮

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摂社 金毘羅宮・河濯神社

金毘羅宮は大物主神、大黒天(福徳の神)を祀っている。

大物主神は出雲大社のご祭神である大国主神の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)である。

※案内板では丁寧に、幸魂は人を幸福に導き給う神霊、奇魂は目に見えない不思議な力の神霊を説明されていた。

河濯(かわそぎ)神社は大祓の祝詞に登場する瀬織津姫命を祀っている。

罪・穢(けがれ)・凶事(まがこと)・禍(わざわい)をはじめ、汚いものを速川の勢いにより、遠い根の国、底の国に流しあらい去り、清々しい心、清浄な身体にされる、大祓の神様である。

この名称の神社は初めて遭遇したかもしれない。

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末社 地主神社

大地主神(おおとこぬしのかみ)を祀る。

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末社 熊野神社

熊野神(家津御子神、熊野速玉神、熊野夫須美神)を祀る。

末社の地主神社と熊野神社は上記天満宮と金毘羅宮・河濯神社の間に右から並んでいる。

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末社 末広稲荷神社

稲荷大神(宇迦之御魂、佐田彦神、大宮能売神)を祀っている。

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末広稲荷神社の右前に祠があったが、詳細は不明である。

このほかに、願掛けの「願い通して矢」という石造りがあった。

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2016年6月 9日 (木)

筑摩神社(松本市)

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つかまじんじゃ。長野県松本市筑摩にある。

旧県社。

※「筑摩」は「つかま」と読む。現在の長野県に当たる地域で筑摩と表記されて「ちくま」と読まれている名称は元来「つかま」と読まれていたが、読みにくいため明治維新の際「ちくま」に変更された。奈良時代は「束間」と書かれていた。現在「つかま」と読むものに、当社以外に松本市の筑摩(1〜4丁目)、筑摩小学校、筑摩遺跡がある。

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ご祭神は、

八幡神の息長帯比売命(神功皇后)、誉田別命(応神天皇)

宗像三女神の多紀利比売命、狭依比売命、多岐津比売命

を祀る。

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創建は、延暦13年(794)、石清水八幡宮より勧請を受けて創建され、正八幡宮の別名がある。

また、信濃国府の松本遷府以後は国府八幡宮とも称し、鎌倉以後は信濃守護の小笠原氏の祖神として崇敬された。

拝殿に「筑摩神社の没革略記」が掲示されていた。内容はつぎのとおりである。

今より千二百五十年前、桓武天皇の時代に八面大王という鬼賊が信濃国安曇郡有明村に住んでいた。その身の大きさは十余尺もあって、その顔は見るも恐ろしいほど鬼面で近隣の村人に危害与えていた。時の御帝桓武天皇は、坂上田村麿を召されて征伐するよう命ぜられた。そこで田村麿は京都の岩清水八幡宮に二十一日間参篭して祈願をかけた。そこで、信濃国の国府の里に八幡宮を祀れば賊平定は成就すると霍験があったのである。それで田村麿は岩清水八幡宮の御分神をはるばる信濃の国に奉待して、こられ、只今の筑摩の地に八幡宮を祀りました。(原文ママ)

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拝殿

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本殿

本殿は永享8年(1436)に焼失した後、同11年(1439)に小笠原政康により再建され、室町時代の建築様式をそのまま残している。松本地方最古の建造物であり、国の重要文化財に指定されている。

また、拝殿は慶長15年(1610)に松本藩主石川氏によって造営されたもので長野県宝、銅鐘は筑摩神社別当寺の安養寺(廃寺)の梵鐘で、永正11年(1514)に小笠原長棟が寄進した旨の陰刻があり松本市指定重要文化財である。

※以上、文章はWikipedia、当社掲示物の内容を抜粋・編集

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2016年4月18日 (月)

甲宗八幡宮

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こうそうはちまんぐう。福岡県北九州市門司区にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社である。

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ご祭神は、第一殿に応神天皇、第二殿に神功皇后、第三殿に宗像三女神(市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命)を祀る。

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創建については以下のとおりである。

清和天皇貞観元年(859)、大和国の大安寺の僧侶であった行教が宇佐神宮に参拝し、「桓武天皇は都を平安京に遷させ給うてより、五十年以上も経過したが、未だに王城鎮護の神なし。 願わくば神慮我に降って守護神を教え賜え」と祈願した。

すると、「吾れ都近く移座して国家を鎮護せん」とのご神勅を受けた。これにより、翌年の貞観二年(860)、清和天皇は太宰大弐清原真人岑成を勅使として派遣した。

その勅使の命を受けた行教は、宇佐神宮のご分霊を山城国に遷座する(石清水八幡宮の創建)途中、門司関の霊峰筆立山の山麓に駐留した。

すると、筆立山上空に瑞雲たなびき、不思議にも八流の幡を天降して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らしたという。

行教は大神の出現疑うべからずと上申し、この地に宇佐神宮のご分霊を祀り、神功皇后ご着用の御甲をご神体として当神社を創建した。御甲をご神体として祀ることから甲宗と称する。

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50年に1度の大祭で神体の拝観が行われる。前々回は昭和33年(1958)、前回は2平成20年(2008)に執り行われた。

境内の拝殿右横に壇ノ浦の戦いで入水した平知盛の塚と伝えられる石塔がある。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

※神社公式ホームページの名称が「甲宗八幡宮」となっていたので、このエントリー記事でもそのようにした。

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2016年4月17日 (日)

福山八幡宮

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ふくやまはちまんぐう。広島県福山市北吉津町にある。

福山城の北側にある松廼尾山に祀られている。

福山八幡宮は2つの社で構成されている。多くの場合、神社を並列して祀る場合、どちらかの本殿へ合祀することが一般的であるが、本宮は本殿、拝殿、随身門、石段、両部鳥居、参道、総門等それぞれが同一規模、同一形式で東西に並べて建てられており、全国に類例の少ない形式である。

かつては、東御宮は延広(のぶひろ)八幡宮、西御宮は野上(のがみ)八幡宮と呼ばれ別法人として祀られていた。

1969年に両者の法人格を合併し「福山八幡宮」となった。備後福山の総鎮守とされ、境内には結婚式などを行う福山八幡宮会館のほか水野勝成を祀る聡敏神社や稲荷神社など多くの社も祭られている。

本宮は25年を式年としており、平成21年(2009)3月3日に、御鎮座三百二十五年奉祝大祭を行った。

ご祭神は、

応神天皇 誉田別命 (ほんだわけのみこと) ― 人皇第15代

神功皇后 息長帯比賣命 (おきながたらしひめのみこと)  ― 応神天皇御母君

比売大神  紀理姫命・多岐都姫命・市杵島姫命 (たぎりひめのみこと・たぎつめひめのみこと・いちきしまひめのみこと)

 

創建は、伝承によれば福山八幡宮の前身となる延広八幡宮と野上八幡宮は古代から深津郡に奉祀されていたとされているが、両神社が文献に現れるのは江戸時代になってからで、それ以前の正確な様子はわかっていない。

福山藩初代藩主水野勝成による福山城築城と城下町の整備に伴い城下に祀られるようになり、2代藩主水野勝俊の時代に城下南側の西と東に置かれる形ができあがった。

延広八幡宮

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かつては惣堂八幡宮と呼ばれ福山城建設地である常興寺山の麓にあったが、福山城築城のとき職人たちにより城下の南の神島町下市(現在の延広町)に祀られたとされる。

寛永18年(1641)に神島町が火事で焼けたため、神島町と共に城下南東(現在の住吉町)に移されたといわれる。なお、現在の天満屋南側の通りが(神社が存在しないにもかかわらず)「宮通り」と呼ばれるのは、この名残といわれる。

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寛文2年(1662)、3代藩主水野勝貞の死去により発生したお家騒動のため、惣堂は騒動につながるとして「延広八幡宮」と改称された。この騒動は旧勝貞側近と門閥派との対立により起きたもので「水野家家中騒動」といわれ勝貞の元側近5名が殉死を強いられることになった。

4代藩主・水野勝種が天和3年(1683)に城下南西の野上八幡宮と共に吉津川北岸に移転させ「東の宮」と一般に呼ばれるようになった。

野上八幡宮

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野上八幡宮は天文年中(1532-55)に備後地方の有力豪族である杉原盛重により常興寺山(現在の福山城)に造営されたとされる。

福山城築城に際して城下の南西である野上(現在の野上町)に移され「野上」の名称の由来となったといわれる。なお、遷座される以前の名称は分かっていないが、常興寺山に祀られる以前は野上町にあったとの伝承もあり、元々野上の名称であったともいわれるが(つまり野上→常興寺山→野上と移転したことになる)、若宮八幡宮の別名もあることから、これが旧称であった可能性も考えられる。

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何れにしろ、確たる由来は不明である。以後、水野家の庇護を受け藩士たちの氏神として崇められていたが、4代藩主・水野勝種が天和3年(1683)に城下南東の延広八幡宮と共に吉津川北岸に移転され「西の宮」と一般に呼ばれるようになった。

両社八幡宮

4代藩主・水野勝種は天和3年(1683)に城下南東の延広八幡宮と城下南西の野上八幡宮を筆頭家老上田玄蕃下屋敷であった吉津川北岸の松廼尾山に移転させた。

本宮は福山城天守を南に望む小山の山頂に同じ形式・規模で並べて建てられ、隣接した位置に設置されたが両社の間は福山藩初代藩主である水野勝成を祀る聡敏神社が鎮座し、参道も東西それぞれに専用のものが設けられた。

このように藩士と町人の氏神が対等に並べられたことは、水野家の統治政策を象徴している。以後、2つの神社は両社八幡宮と呼ばれることになった。

福山八幡宮

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昭和44年(1969)に両者の法人格は合併され神社本庁所属の別表神社となり社名は「福山八幡宮」と改められた。

両社の本殿は共に建造当時のまま今日まで残されているが、間を隔てる聡敏神社は昭和59年(1984)の中央拝殿建設により西御宮裏(北西部)に移され、本殿の周囲も舞台の新設を始めとする大規模な整備が行われ創建時から大きく姿を変えた。

この中央拝殿は御鎮座300年の式年記念事業により建てられたもので、両社の中間に位置し、東西の本殿を同時に参拝できるようになっている。

なお、中央拝殿正面の舞台は巨大な貯水タンクになっており、初期消火に必要な水量(最大水量にて30分連続放水可能)を常に蓄えている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

 

隣接して昆(うしとら)神社があるのだが、時間の関係でお参りしなかった。当社ももう少し時間をかけてお参りしたほうがよかった。福山は再び訪れたいところだ。

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亀山神社(呉市清水)

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かめやまじんじゃ。広島県呉市清水にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

旧呉市内の総氏神として信仰される。

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ご祭神は、 八幡神として品陀和気命(応神天皇)・帯中日子命(仲哀天皇)・息長帯日売命(神功皇后)を祀る。

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豊前国宇佐に鎮座していた八幡神が、豊後国姫島、安芸国栃原を経て大宝3年(703)8月15日に宮原村亀山(入船山)に遷座したのに始まると伝える。

当社は皇城宮・大屋比売神社・大帯比売神社・比売志麻神社・鈴音宮などと呼ばれたが、一般には「八幡様」と呼ばれていた。

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明治19年(1886)、亀山に呉鎮守府を開設するのに伴い現在地に遷座した。

昭和16年(1941)に県社に列格した。昭和32年(1957)に別表神社に加列された。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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2016年4月16日 (土)

琴崎八幡宮

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ことざきはちまんぐう。山口県宇部市にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

宇部市の総鎮守として崇敬を受ける。

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ご祭神は、

主祭神に、八幡神(品陀和気命・気長足比女命・足仲津比古命)を祀り、

宗像三女神(多紀理比女命・多紀津比女命・市杵島比女命)を配祀する。

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創建は、社伝によれば、貞観元年(859)、僧の行教が御舟で宇佐八幡宮より御分霊を京都石清水八幡宮に御勧請の際、海上の時化のため、宇部郷琴芝の浦に寄航し、御分霊をこの地に留めたところ、里人が御神徳を景仰し琴芝村八王子に祠を建立したことが起源である。

霜降城城主厚東氏からも城南の鎮守として代々尊崇した。

しかし、社地が海岸であった為、祠は長い年月を経て波や風雨にさらされ、やがて廃壊した。

寿永三年(1184)厚東氏七代目の武光が長門国守護職に任ぜられると、その地を訪れ、新たに社殿を建立するよう命じ、社地は西の宮に遷され社殿を造営し、祭事を奉仕し代々崇敬した。

のち、大内弘世が長門国守護職となり、永和三年(1377)、僧の性禅と祀職の豊住がご神託を受けて西の宮から琴崎の地に奉遷された。これが現在の社地になる。

藩主・毛利氏の崇敬は篤く、永禄九年(1566)、社殿造営にあたり毛利元就は竺雲禅師を参拝させ寄進されました。

領主福原氏は代々崇敬篤く、社領を献じ、元禄十年(1697)には、福原広頼が社殿を改造し奉られた。福原越後公は、常に当社に参籠し国事の遂行を祈請されたと記録に残る。

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明治6年に郷社に列し、昭和10年10月には、伊勢神宮の御用材を使用し壮麗なる現社殿を新築、境内外も整備拡張されました。昭和13年県社に列した。

昭和41年7月に神社本庁の別表神社に昇格加列した。

※以上、文章は公式ホームページ、Wikipediaより抜粋・編集

境内末社は以下のとおり。 

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社殿の右側に琴崎稲荷神社がある。

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境内の参道の右側に宇部宮地嶽神社がある。

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同じく参道の右側に琴崎薬(やく)神社がある。

このほかに、いぼ神社がある。

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今八幡宮

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いまはちまんぐう。山口県山口市八幡馬場にある。

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ご祭神は、

 応神天皇 (第15代天皇)

 仲哀天皇 (第14代天皇・応神天皇の父)

 神功皇后 (仲哀天皇の皇后・応神天皇の母)

 玉依姫命 (初代神武天皇の母)

 宇治皇子 (応神天皇の皇子・仁徳天皇の弟)

を祀る。

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創建や歴史については以下のとおり。

室町時代に記された『二十二社註式』によれば、初め宇治皇子一座を祀り今八幡宮と称し、守護大名大内氏の山口入府以前から存した。この社の創建年代は不明であるが、鎌倉時代の弘安年間、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前の古社であることが判る。  

文明3年(1471)大内政弘が山口の鎮守と定めて市内の朝倉八幡宮を遷して合祀し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、他に三座が加列される。

その後、文亀3年(1503)大内義興が社殿を造替、明との交易で得た莫大な財力を象徴する荘厳なもので、現在国の重要文化財に指定されている。 

当宮は大内氏の居館(大内館)北東の鬼門除けにあたる守護であり産土神であることから、山口町の総氏神として「山口総鎮守」の尊称を賜り、歴代当主の崇敬は極めて篤い。

『大内氏壁書』の文明10年(1478)条に大内政弘より布達された「今八幡宮条々」において当時の広大な神域を維持・保護するため種々の触書が出されたほか、常に当主の参拝や寄進が行われた。

大内義隆はその財力を誇示する巨大な鰐口を寄進しているほか、神道に強い感心を寄せて都から吉田兼右を招聘し、宮司共々神道伝授を受けている。さらに貴族風な義隆は網代車で社参するなど、その権勢は山口を中心に最高潮に達した。

大内氏滅亡後も、引き続き毛利氏により当宮は篤く保護され、神領が寄進されたほか、修繕の際の費用は藩より支弁されている。また一門の病気平癒祈願が行わるなど、当宮に対する尊崇が判る。 

幕末には、七卿を財政面で支援したほか、社務所において堀真五郎、久坂玄瑞らが密談を重ね、堀を総督とする諸隊のひとつ八幡隊が結成。屯所になり、四境戦争などに大いに活躍した。

明治6年に郷社に列し、大正3年に解体修理を施す。

昭和29年、平成3年に屋根の葺き替えを行う。  

古くから山口地方において両社といえば当宮と仁壁神社を指し、例祭には毛利家から当主の代参がこの二社にかぎり差遣された。

また正月の三社詣りはこれに八坂神社を加えたものとして、江戸期より今なお地元市民の習俗に生きている。

※以上、文章は公式ホームページより抜粋・編集

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2016年4月14日 (木)

曩祖八幡宮

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のうそはちまんぐう。福岡県飯塚市にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

旧称は納祖宮。 飯塚の鎮守として崇敬され、また子守りの神としても信仰されている。

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ご祭神は、

 応神天皇 

 仲哀天皇 

 神功皇后 

 武内宿禰

 天神地祇

を祀る。

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創建は、神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられる。

このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるという。

社伝では、その跡に作られたのが当社であるという。

創建年代は不詳であるが、延文4年(1359)には社殿が建立されていた。

大正13年に県社に昇格した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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鳥居は左右にも並んでいる。

額には手前が天満宮、奥が須佐宮の文字が掘られている。

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境内の右側にある産の宮。

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本殿の右側の奥に若光稲荷神社がある。

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紅葉八幡宮

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もみじはちまんぐう。福岡県福岡市早良区にある。

旧県社。

ご祭神は、 神功皇后・応神天皇・菟道稚郎子命の他、大己貴命・稲倉魂命・事代主命等12柱を祀る。

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創建は、文明14年(1482)、筑前国早良郡橋本村に土着した陸奥国刈田の住人・柴田繁信によって八幡宮が建立されたのが神社の創建とされる。

以来、橋本村一円の鎮守神として尊崇を集め、江戸時代には、橋本村で生まれ育った福岡3代藩主・黒田光之の産土神として橋本の八幡宮は藩より格別の崇敬を受けた。

寛文6年(1666)8月、橋本村より西新百松原の地へ遷宮し社殿の造営し藩内有数の大社となった。後代の藩主の崇敬も篤く、神領100石が寄進され、たびたび藩主の親拝があった。

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明治5年(1872)11月3日村社となる。その後、境内地近隣に鉄道が引かれたため大正2年(1913)10月16日、現在地に移転した(移転する前の旧地において当社境内正面にあった杉山神社は、僅かに移転しているものの今も西新の地に残っている)。

大正11年(1922)4月29日、県社に昇格。

現在でも西新地区の鎮守神として、西新・藤崎地域の住民の崇敬を受ける。

なお、当社が移転した後の橋本地区には、現在では新たに橋本八幡宮が鎮座している。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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本殿左側に宇賀稲荷神社がある。

 

参道の左右に紅葉が植えられていて、秋の紅葉のシーズンは名前のとおり美しい参道になることが想像できた。

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2016年3月26日 (土)

櫻山八幡宮

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さくらやまはちまんぐう。岐阜県高山市にある。

秋の例祭は、春の日枝神社の例祭とともに高山祭として知られ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

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ご祭神は八幡大神(応神天皇)を主祭神とし、相殿に熱田大神(日本武尊命)・香椎大神(仲哀天皇・神功皇后)を祀る。

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創建は、仁徳天皇65年、飛騨国に二つの顔を持つ宿儺(すくな)という賊が現れ、それを討伐するために派遣された難波根子武振熊命が戦勝祈願のために先代の応神天皇を祀ったのに始まると伝える。

また、聖武天皇が諸国に設けた護国八幡だという説もある。

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江戸時代に金森氏が当地の領主となったとき氏神として当社を保護し、宮川以北の住民を氏子とした。

明治時代に八幡神社に改称し、昭和7年に県社になる。

桜山八幡宮は戦後から称したもの。

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