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2016年7月

2016年7月16日 (土)

岐阜護國神社

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ぎふごこくじんじゃ。岐阜県岐阜市、岐阜城の築かれた金華山の北麓にある。

旧内務大臣指定護国神社。現在は神社本庁の別表神社。

明治維新以来の岐阜県出身の護国の英霊37,800余柱を祀る。

長良川に面する参道の鳥居(上の写真)では、背景に金華山と頂上の岐阜城が臨める。

神紋は菊に桜。

近年では、本殿での神前結婚式が数多く執り行われており、平和を打ち立てる神、家内安全の神として崇敬されている。併設のせいらん会館では結婚披露宴も行われる。

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駐車場側の鳥居。

自動車で訪れるとこちらから境内に進むため、長良川の参道を知らずに参拝を済ませる人も多そうだ。

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創建の経緯は次のとおりである。

岐阜県内には、元々招魂社として、明治3年(1870)に大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)、明治42年(1909)に高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)が創建されていたが、岐阜市ほか10郡には招魂社がなかった。

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日露戦争後の明治41年(1908)、岐阜市郊外の稲葉郡北長森村(現 岐阜市野一色)に陸軍歩兵第68聯隊が設置され、大正6年(1917)に稲葉郡那加村(現 各務原市)に陸軍各務原飛行場が開設されると、当地出身の殉国者を祀る招魂社建立の機運が高まった。

大正7年(1918)に歩兵第68聯隊は岐阜県知事、市町村長及び在郷軍人などの有志と共に招魂社の創建を企画したが実現しなかった。

昭和12年(1937)の支那事変勃発に伴い、昭和14年(1939)3月10日に2市10郡209ケ村の代表者が内務省へ創立を出願し、内務大臣から創立許可を受けた。

翌昭和15年(1940)11月に社殿が竣工、同19日に鎮座の儀、翌20日に幣帛供進の儀が執り行われて創建された。

なお、昭和14年(1939)4月1日に施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年3月15日内務省令第12號)により、招魂社は護國神社と名称が改められていたので、創建当初から「岐阜護國神社」と称し、内務大臣指定護国神社に指定された。

第二次世界大戦後の一時期は美濃御霊神社と改称していたが、主権回復後は元の名に復した。平成7年(1995)には終戦50周年事業として外拝殿が竣工している。

 

境内には、戦災犠牲者(空襲や海外移民、敵味方を問わず)及び無縁の遺族や遺骨を祀る鎮霊社があるほか、英霊の霊璽簿(名簿)を護る耐火耐震造の奉安殿、河童大明神を祀る河童堂などがある。

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鎮霊社

社殿垣外右側にあり、光溢れる静謐な場所になっている。

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鎮霊社の狛犬

白目を塗ってあることが風貌に独特な印象を与え、苔むした姿も存在感を強めている。

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せいらん会館は神社の付帯施設で、以前は「ホテルせいらん」として営業していたが、平成19年(2007)4月に営業終了し、平成21年(2009)6月に全面リニューアルし、神社の参集殿・結婚披露宴のみの営業となった。また、参集所の1階には岐阜県遺族会の事務所が入居する。

春は桜の名所として境内の早咲きの鵜飼桜(江戸彼岸桜)が有名である。岐阜市内で最も早く開花するこの桜は、幹周り約2.5m、樹高約8m、樹齢100年以上と古く、春の訪れと共に多くの花を咲かせる。かつては桜の咲き具合で鵜飼の鮎の漁獲量を占ったので鵜飼桜の名が付いたという。岐阜公園・長良川堤の桜と併せて、飛騨・美濃さくら三十三選の一つに選ばれている。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・加筆・編集

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拝殿の左側に石が立っていたので、社務所で何か尋ねてみたら、鶴と亀を模した石なのだそうだ。

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参道左側の石は立っていて、鶴を表し、

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参道右側の平べったい石は亀を表している。

おめでたい庭になっているのだそうだ。

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明治大帝聖像

長良川沿いの鳥居の近くに設置されている。

元々は昭和47年に岐阜公園千畳敷に設置されたが、明治大帝崩御百年を機に、平成24年3月にこの地に移設された。

このような恰幅のよい明治天皇像を初めて見た。

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平和祈念の碑と慰霊塔

駐車場側の鳥居の手前左に設置されている。

 

蒸し暑い日であったが、岐阜駅からバスで移動し、お参りできた。

岐阜駅から長良橋停留所までのバスは数系統あるので、利便性はよいと思う。金華山頂上の岐阜城に上るロープウェイ乗り場、長良川の鵜飼観光船乗り場などもあり、観光と組み合わせて参拝することもできる。

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滋賀縣護國神社

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しがけんごこくじんじゃ。滋賀県彦根市の彦根城址にある。

旧内務大臣指定護国神社。現在は神社本庁の別表神社。

戊辰戦争から第二次世界大戦までの滋賀県関係の戦歿者3万4千余柱を祀る。

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明治2年(1869)、彦根の大洞竜潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士26人の霊を祀る招魂碑が建てられた。

明治8年(1875)、元彦根藩主井伊直憲の主唱により招魂碑を神社に改造する旨の政府の通達が出され、招魂碑を現在地に移し、翌明治9年、同地に社殿を造営・鎮座した。

昭和14年(1939)に内務大臣指定護国神社として「滋賀県護國神社」に改称した。

第二次大戦後の占領期は「沙々那美神社」と改称していたが、日本が主権を回復した昭和28年(1953)に元の社名に復した。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・編集

 

彦根城址公園の入口にあり、境内左側は彦根城博物館、玄宮園を訪れる観光客の駐車場に面している。様々な記念碑は境内右側に設置されている。

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滋賀県シベリヤ抑留者慰霊碑 平成12年11月吉日

滋賀県出身者の四百余名が現地で抑留中に亡くなった。

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戦歿軍馬軍犬軍鳩霊之碑

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平和の碑 彦根傷痍軍人会

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滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑 昭和42年12月9日

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拓友碑 三滋北義會 昭和48年9月

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花塚

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母の像

㈶滋賀県遺族会60周年記念 平成19年9月吉日

父の像

㈶滋賀県遺族会青壮年部 昭和44年8月吉日

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長濱八幡宮

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ながはまはちまんぐう。滋賀県長浜市宮前町にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

日本三大山車祭の「長浜曳山祭」が催される。

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ご祭神は、

東御前:足仲彦尊(仲哀天皇)

中御前:誉田別尊(応神天皇)

西御前:息長足姫尊(神功皇后)

を祀る。

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創建は、平安時代後期(1069)に源義家からの発願をうけた後三条天皇の勅により、石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わる。

戦国時代には兵火を受けて衰退したが、長浜城城主となった羽柴秀吉により復興された。

平安時代より境内には別当寺である新放生寺が存在していたが、明治時代初期の神仏分離令により廃され、唯一残された子院の舎那院に仏像や資料等が全て移された。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・編集

境内

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摂社 高良神社

ご祭神である武内宿禰が五代の天皇に仕えたことで長寿の神様とされてきたことから。ぼけ封じの宮とされている。

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高良神社の右に「ぼけ封じの大石」があった。

小さな穴がたくさん開いていた。

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摂社 都久夫須麻神社

市杵島姫神、辨財天(愛敬神)を祀っており、水の女神様である。都久夫須麻神社は琵琶湖の竹生島にある三大辨財天のひとつである。

境内の放生池の中にあり、放生池では毎年8月15日に雨乞いの行事「永久寺の蛇の舞」が奉納される。

蛇は竹と和紙で作られ、全長約10m、胴囲り約1.3mほどの大きなもので、玉龍・竹龍・火龍という3つの出し物があり、蛇が龍に変貌して雨を降らすという水神信仰を背景にしたものである。

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摂社 天満宮

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摂社 金毘羅宮・河濯神社

金毘羅宮は大物主神、大黒天(福徳の神)を祀っている。

大物主神は出雲大社のご祭神である大国主神の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)である。

※案内板では丁寧に、幸魂は人を幸福に導き給う神霊、奇魂は目に見えない不思議な力の神霊を説明されていた。

河濯(かわそぎ)神社は大祓の祝詞に登場する瀬織津姫命を祀っている。

罪・穢(けがれ)・凶事(まがこと)・禍(わざわい)をはじめ、汚いものを速川の勢いにより、遠い根の国、底の国に流しあらい去り、清々しい心、清浄な身体にされる、大祓の神様である。

この名称の神社は初めて遭遇したかもしれない。

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末社 地主神社

大地主神(おおとこぬしのかみ)を祀る。

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末社 熊野神社

熊野神(家津御子神、熊野速玉神、熊野夫須美神)を祀る。

末社の地主神社と熊野神社は上記天満宮と金毘羅宮・河濯神社の間に右から並んでいる。

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末社 末広稲荷神社

稲荷大神(宇迦之御魂、佐田彦神、大宮能売神)を祀っている。

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末広稲荷神社の右前に祠があったが、詳細は不明である。

このほかに、願掛けの「願い通して矢」という石造りがあった。

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豊国神社(長浜市)

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ほうこくじんじゃ。滋賀県長浜市南呉服町にある。

旧県社。近江長浜6瓢箪巡りの第一番札所。

ご祭神は、豊国大明神(豊臣秀吉公)、事代主大神(八重事代主命)、加藤虎之助清正公、木村長門守重成公を祀る。

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創建は、長浜町民が豊臣秀吉の三回忌に当たる慶長5年(1600)に、その遺徳を偲んで建立した。豊臣秀吉は天正元年~天正4年(1573-1576)に長浜城主であった。

江戸時代に入ると、徳川幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊された。しかし、祭神は町民によって町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀っていた。

当社で事代主が一緒に祀られているのはこのためで、鳥居脇の社標は「豊国神社」のほかに幾分小さめの「長濱恵比須宮」の標が設置されている。

明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898)に拝殿が再建された。

明治14年に村社、大正9年に郷社、大正11年に県社に列した。

神社本社は江戸中期の建築物である。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・加筆・編集

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東側参道の鳥居。

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境内摂社 稲玉命出世稲荷神社

豊国神社の右側(東側)に並んでいる。

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境内摂社 天満宮

東側参道に面している。

160716_0927加藤清正公の銅像。

東側参道の左側に、参道向きではなく東向き(鳥居向き)に立っている。

神社鎮護の神像だそうである。

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2016年7月14日 (木)

東京大神宮

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とうきょうだいじんぐう。東京都千代田区富士見にある。

歴史的経緯から社格はない。

「東京のお伊勢さま」と称される。

神前結婚式を考案した神社であり、縁結びの神様として人気が高く、女性の参拝客が多い。

ご祭神は、天照皇大神・豊受大神を主祭神とし、造化三神の天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神および倭比売命を相殿に祀る。

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当社の起源は、明治5年(1872)に開設された神宮司庁東京出張所(伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と東京の教部省との連絡のための出張所)および翌年その構内に開設された東京神宮教会(伊勢神宮の教導機関である神宮教院の東京支部)の両所にあった神殿を継承して、明治13年(1880)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿である。

これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として設置されたものであった。

明治15年(1882)1月、明治政府の方針転換により神社と宗教活動を分離することとなり、伊勢神宮でも神宮司庁と神宮教院を分離することとなった。

そのため、皇大神宮遙拝殿は神宮教院に属することとなり、同年5月、神宮教院が神道神宮派に改称する際に、当社も大神宮祠と改称した。一般には所在地名から日比谷大神宮と呼ばれていた。

明治32年(1899)神道神宮派が解散して新たに神宮奉斎会が作られ、当社は神宮奉斎会本院と改称し、神宮奉斎会の本部機関となった。神宮教院の大本部は三重県宇治山田市(現 伊勢市)に置かれていた。

大正12年(1923)、関東大震災で社殿を焼失し、昭和3年(1928)、現在地に再建・遷座して、以降は飯田橋大神宮と呼ばれるようになった。

上述のように、第二次大戦以前は神社という形ではなかったので、社格の指定がなく、氏子地域も存在しない(当社所在地は築土神社の氏子地域にあたる)。

第二次世界大戦後の昭和21年(1946)4月、宗教法人東京大神宮として再発足した。

神前結婚式について

神宮奉斎会時代に教化事業として神前結婚式の創設と普及活動を行った。

明治33年(1900)5月10日、明治天皇第三皇子の明宮嘉仁親王(後の大正天皇)と九條公爵家令嬢の九條節子(後の貞明皇后)との御結婚の儀が宮中三殿に於いて執り行われた。

神宮奉斎会国礼修業部は嘉仁親王と節子妃の結婚の儀を基本にして神前結婚の儀式を創設し、翌明治34年(1901)3月3日、当社において模擬結婚式を開催した。

その後改良を加えた神前結婚式のスタイルが奉斎会各県本部・各支部によって全国に広められ、定着していった。

現在「神前式」として行われている結婚式は、神宮奉斎会が創設したものが基になっている。

なお、現在同神社での神前結婚式及び披露宴については、松屋の関連会社であるアターブル松屋が運営しており、「東京大神宮マツヤサロン」の名称を用いている。

模擬結婚式の模様(明治34年3月3日)

此の日来賓は細川男爵、宮地掌典、下田歌子、三島通良の諸氏を始め華族女学校生徒百余名、百花燎乱の装い両側の席定まるや、礼法師範の田島秀子女史は媒酌人の立場で入り来り、下座にて一礼し、足並正しく、正面伊弉諾・伊弉冉尊の軸、供された神酒、神饌の前に跪き一礼の後、銚子等を改め座に退くや、聟に擬された某は、聟附媒酌人を従え、新婦某は嫁附媒酌人を従え、静々と両側から歩を運ぶ。先ず床間の前に跪き、神を拝して各々定めの席に着く。床の方から左の方は夫の席、右方は新婦である。媒酌人はそれぞれ其の下手に座す。 次に、酌人某2人、いずれも芳紀15・6才ばかりなるが、婦媚なる花顔に髪を下髪となし、白衣を纏い、海老茶の袴を穿ち、肩には薫色燎爛たる綾を掛け、次の間から歩み来る。これは伊勢大神宮にて用いる明衣の制に依りたるもので、男ならば、素袍、女なれば五衣を折りて肩にかけたるに象りたるものと謂わる。 かくて、酌者両嬢は床の前に跪き、1人は口〆を紙の上に載せ、之を新夫の前に置く。1人は其の助手である。新婦の時も亦同じ。次に此の三宝を床の上に返し、更に土器を重ねたる三宝を新夫の前に置く。酌人又起て、酒器を執り、新夫土器を執って三度これを受く。これより新婦の前に三宝を置く。酌人新婦に土器を捧ぐ。新婦三度これを受けて後、其の土器を下に移し、第2、第3の土器にて、新夫から新婦に及ぶ。其の度数作法前に同じ。これ即ち三々九度の様なるが、これが済めば、酌人酒器を下座に移し、新夫の前にある三宝を捧げて床の上に置き、次に酒器を置き、退きて次の間に下る。 かくて媒人は礼の畢るを告げ、新夫婦各起ちて床の前に跪き、神を拝して起ち別室に入る。(雑誌祖国 明治34年3月15日号)

※以上、文章はWikipedia、公式ホームページを抜粋・編集

 

二度目の参拝になった。JR飯田橋駅から至近距離に立地し、お参りしやすい神社である。いつ訪れても女性の参拝客が多い。時節柄蒸し暑い日であったが、境内の休憩所などにミスト噴霧器が設置され、参拝客が涼を取れる配慮がなされていた。ありがとうございます。

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