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2016年5月

2016年5月19日 (木)

武蔵御嶽神社

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むさしみたけじんじゃ。東京都青梅市(武蔵国多磨郡)の武蔵御岳山の山上にある。

旧府社。現在は神社本庁に属さない単立神社。式内社の大麻止乃豆天神社という説がある。

中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。

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ご祭神は櫛真智命、大己貴命、少彦名命、安閑天皇、日本武尊を祀る。

創建は、崇神天皇7年(前91)とされ、天平8年(736)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。

文暦元年(1234)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納される。

慶長10年(1605)には大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700)には弊殿と拝殿が建立された。

明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであったが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。

昭和27年(1952)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。

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本社拝殿は五間社入母屋造の大き目の社殿で、朱塗りで鮮やかに彩られており、唐破風の向拝には彫刻がある。参拝した日は残念ながら改修中であった。

現在の本殿は一間社神明造で明治10年(1877)に造営された。

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二柱社(手前)

伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左側に鎮座している。社殿は一間社流造の見世棚造である。

八柱社(奥)

本社玉垣内にあり、本殿の向かって左側、二柱社の隣りに鎮座している。春日社、八幡社、䗝養社、八雲社、座摩社、月乃社、国造社、八神社を祭る。

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北野社

菅原道真を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左側に鎮座している。社殿は一間社流造である。

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巨福社

埴山姫命を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左奥に鎮座している。流造の小さな社殿が覆殿に納められている。

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神明社

天照大神を祭る。本社玉垣内にあり、本社の後方に位置している。社殿は神明造である。

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大口真神社(おおくちまがみ しゃ)

大口真神を祭る。本社玉垣内にあり、神明社の後方に瑞垣に囲まれて鎮座している。御嶽神社の眷属である狼を祀っている(言い伝えについては後述)。

古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。

現在の社殿は昭和14年(1939)に建てられた一間社流造の社殿で豪華な彫刻が全体に施されている。社殿後方は奥宮遥拝所となっている。

奥宮遥拝所

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大口真神社の左脇を進むと、奥宮遥拝所がある。

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険しい山が見える。

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常磐堅磐社(ときわかきわ しゃ)

本社玉垣内にあり、本殿の向かって右奥に位置している。祭神は境内案内によると、崇神天皇・景行天皇・安閑天皇・清和天皇と狭依比売神ほか96柱とあるが、神社頒布物によると、諸国一宮祭神となっている。

社殿は永正8年(1511)以前に造営された旧本殿であり、東京都指定有形文化財に指定されている。一間社流造で漆黒に塗られ荘厳な装飾がほどこされている。

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皇御孫命社(すめみまのみこと しゃ)

瓊々杵尊を祭る。本社玉垣内にあり、本社の向かって右側に位置している。瑞垣に囲まれており、社殿は朱塗りの一間社入母屋造で千鳥破風と唐破風がついている。もともとは東照社の社殿であったため、三つ葉葵の紋なども見られる。

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東照社

東照大権現を祭る。本社玉垣内にあり、本社の向かって右側に位置している。現在の社殿は一間社流造の簡素なものであるが、もともとは現在の皇御孫命社の社殿が東照社であった。

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宝物殿

本社玉垣に向かって右側に建ち、国宝の赤糸縅大鎧などを見ることができる。

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畠山重忠の像

「坂東武士の鑑」と称された武士で国宝の大鎧を奉納した武者の騎馬像。宝物殿の前庭に立つ。北村西望の作で昭和56年に建立された。

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随身門

大鳥居の先にあり朱塗り一層の造りとなっている。

※2枚目の写真と同じ建造物を参道上から見た写真

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稲荷社

倉稲魂神を祀る。随身門のやや奥にある。

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三柱社

大歳神、御歳神、大山咋神を祀る。随身門のやや奥にある。

これらのほかに奥の院の奥宮に男具那社(おぐなしゃ)があり、日本武尊を祀っている。

※以上、文章はWikipedia、公式ホームページ、当社冊子を抜粋・編集

 

狼信仰に関連する甲斐の金櫻神社、秩父三社(寶登山神社、秩父神社、三峯神社)とお参りし、ようやく奥多摩の武蔵御嶽神社にお参りできた。

拝殿は改修中なのは残念だったが、狼信仰に関係する大口真神社にお参りできたのは幸いだった。ご祭神は大口真神(おおぐちのまがみ)で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を助けた白狼が神になったものだ。

云い伝えは次のようなものである。

日本武尊が東征の際、この御嶽山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。

尊は山蒜(やまびる)で大鹿を退治したものの、山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われた。

そこへ、忽然と白狼が現れ、西北へ尊の軍を導いてくれた。

尊は白狼に「大口真神としてこの御嶽山の留まり、すべての魔物を退治せよ」と仰せられた。

以来、魔除け、盗難・火難除けの神として霊験著しく、この神符を「お犬様」とあがめ、戸口に貼ったり、家の敷地内にお社を建立し、家の守り神とする信仰が広まった。

※『御嶽神社の祭り』、白水社、2010年改訂新版、31頁から抜粋・編集

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2016年5月15日 (日)

二宮神社(あきる野市)

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にのみやじんじゃ。東京都あきる野市二宮にある。

武蔵国二宮。旧郷社。

別称は「小河神社(おがわじんじゃ)」。古くは「小河大明神」または「二宮大明神」とも称された。

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ご祭神は国常立尊 (くにとこたちのみこと)を祀っている。

創立年代は不詳である。

『和名抄』に記されている武蔵国多摩郡小川郷の鎮守であり、「小河大明神」とも称された。地名の元になった小川氏は日奉(ひまつり)氏から出て、のちに小川姓を名乗った。

当社は武蔵国の二宮であったとされ、『神道集』『私案抄』にみられる「武州六大明神」の一角に数えられているが、六社のうち唯一式内社でない。

現在も武蔵国総社・六所宮(現 大國魂神社)の一座に祀られていて、周辺の地名も「二宮」と称されている。

古い記録によると、藤原秀郷が生国の山王二十一社中の二宮を崇敬する縁故をもって特に当社を崇敬し、天慶の乱に際し戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営した。

源頼朝、北条氏政の崇敬も篤く、ことに北条氏照は滝山城主となって、同氏の祈願所とした。のち、神殿・神宮宅は罹災し、記録の大半が焼失した。

一方、鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重が城館を構え、5代にわたって居城としたとの記録がある。

この「二宮城」の所在を探るため、昭和47年(1972)に二宮神社境内の一角が発掘調査されたが、関係する資料を得ることはできず否定された。

しかし、この発掘調査では、寺院に関係する小型の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見され、新たな謎を呼んでいる。特に、薬師如来像は小河大明神の御正体と推測されている。

天正19年(1591)、徳川家康より代々15石の御朱印地とされ、以後、代々継承されてきた。現在の本殿は、江戸時代に建立されたといわれる。

明治3年(1870)、現社名に改称した。

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荒波々伎社

足神様、門神様とも言われ、日本の原始信仰を残す神、健足長寿の神である。

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諏訪神社(おすわ様)

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五社(伊勢・八幡・天王・天神・稲荷の五社を合祀)

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稲荷社

五社の左後方にある。

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社宮社(おしゃもじ様)

咳や風邪の神を祀る。境内でなく、御手洗池の畔にある。

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御手洗池(みたらしいけ)

どんな干天でも涸れたことのないお池だそうで、水の透明度も高く、よく整備されていた。

※以上、当社由緒書きを抜粋・編集

 

4月4日に参拝した際、ご神職は不在だったが、御朱印を受け付ける日が社務所の窓口に掲示されていて、4月は第2・第3日曜日だった。境内の見落とした場所の確認も含め、5月の第3日曜日に再度お参りしたところ、社務所の前に数人、御朱印待ちの人の姿が見えたので、受け付けの該当日だった。

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2016年5月14日 (土)

於岩稲荷田宮神社(新宿区)

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おいわいなりたみやじんじゃ。東京都新宿区左門町にある。

旧無格社。 

鶴屋南北の『四谷怪談』の登場人物のモデルとなったお岩さんを祀る神社である。

元々は四谷左門町の田宮家の屋敷社(やしきがみ)であった。

 

江戸時代の初め、徳川家の御家人・田宮又左衛門の娘で田宮岩は夫の伊右衛門と仲の良い夫婦であった。お岩は三〇俵三人扶持、年の棒給は十六石足らずの家計を支えるため、商家に奉公に出た結果、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての隆盛を取り戻した。

寛永13年(1636)、田宮岩 没。

お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していたため、その信仰のおかげで田宮家は復活したと評判になり、近隣の人々はその幸運にあやかろうと、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。

評判が高くなるにつれ、田宮家では屋敷社の傍らに小さな祠をつくり「お岩稲荷」と名付けて信仰するようになった。

享保2年(1717)、「お岩稲荷」勧請、「於岩稲荷社」となる。

「大巌稲荷」、「四谷稲荷」、「左門町稲荷」などとも呼ばれていた。

文政8年(1825)、ご祭神「於岩さま」が主人公のモデルとなった東海道四谷怪談(四世鶴屋南北作)が上演され、大人気となった。

お岩役に三代目尾上菊五郎、伊右衛門役に七代目市川団十郎。以来、お岩役は尾上家のお家芸となった。

文政10年(1827)、『文政町方書上』に「於岩稲荷社来由」が付される。

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明治3年(1870)頃、「於岩稲荷田宮神社」に改称。

明治12年(1879)、四谷左門町の火事で社殿が焼失。隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に移転した。これが現在の中央区新川ににあるもう一つの於岩稲荷神社の起源である。

昭和6年(1931)、四谷左門町の「於岩稲荷田宮神社」地が東京都史跡として指定される。

昭和20年(1945)、新川の社殿が戦災で焼失。

戦後、四谷、新川ともども再建して、現在に至る。

※以上、文章は当社由緒書きから抜粋・編集

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拝殿の縁にお札が置いてあり、参拝者が好きな言葉のものを取っていけるようになっている。

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住宅街にあり、斜向いの寺院も於岩稲荷の幟を立てていた。

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2016年5月12日 (木)

三峯神社

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みつみねじんじゃ。埼玉県秩父市三峰にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

秩父神社寳登山神社とともに秩父三社の一社。

三ツ鳥居がある。狼を守護神とし、狛犬ではなく神社各所に狼の像が置かれている。

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ご祭神は、主祭神として、伊弉諾尊、伊弉册尊を祀り、

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)の造化三神と天照大神を配祀する。

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創建は、社伝によれば、景行天皇の時、日本武尊が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登り、伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。

景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。

伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる。

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三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。

熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。

中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。

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養和元年(1182)に、秩父を治めていた畠山重忠が願文を収めたところ霊験があったとして、建久6年(1195)に、東は薄郷(現・小鹿野町両神付近)から西は甲斐と隔てる山までの土地を寄進して守護不入の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えた。

しかし、正平7年(1352)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。

文亀年間(1501-1504)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて天文2年(1533)に堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。

以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。

以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)」を寺の定紋とした。

江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。

さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。

修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。

伊奈忠福の代に、土地山林を寺に寄進し、広く村人に信仰を勧め栄えた。

※伊奈氏はもともと関東郡代の一族だったが家督争いから一旦名跡取り上げとなり、その後秩父郡の小普請となった。

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明治の神仏分離令により寺院を廃して「三峯神社」に改称した。

明治16年(1883)に近代社格制度において県社に列した。

明治中期には、社務所に600人を泊められる施設があり、客のための料理や酒も自家製で賄っていたという。

大正末期に秩父宮が参拝したことをきっかけに信徒が全国的に増え、講社数が増大した。

昭和14年(1939)には、麓から参道に沿って三峰ロープウェイが山頂まで敷設されたが、平成19年(2007)に廃止された。

平成16年(2004)に社殿を修復した。

※以上、文章はWikipedia、由緒書き等を抜粋・編集

 

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三ツ鳥居を通り、整備された参道を進む。右側の石碑は植栽事業などの記念碑で、古くから人々の崇敬が厚く、寄進があったことがわかる。

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参道の突き当たりに日本武尊の銅像が設置された高台がある。

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日本武尊。

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参道の突き当たりの右側は奥宮遥拝殿への石段がある。

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遥拝殿正面の眺望。

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その左側の眺望。

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参道の突き当たりの左方向、遥拝殿に上がる石段の対面に参道は続いていて、楼門がある。

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楼門を抜けると下がり参道になっていて、両脇に石灯籠が続く。

ここをしばらく進むと上に載せた写真の境内に上がる石段下に到着する。

 

拝殿・本殿の右に境内摂末社がある。左から

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祖霊社

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國常立神社

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日本武神社

 

先月参拝した寳登山神社、秩父神社に引き続き、お参りできた。無事、秩父三社への参拝を終えられた。

ツツジの名所で、鮮やかな色のツツジが各所に咲き、彩りを与えていた。秋の紅葉の素晴らしさも容易に想像された。

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2016年5月 2日 (月)

靖國神社

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やすくにじんじゃ。東京都千代田区九段北にある。

※「やす」の旁の「青」の下部は「月」でなく「円」

勅祭社。旧別格官幣社。単立宗教法人(単立神社)。

九段坂の坂上に東面して鎮座しており、大鳥居が東に向いている神社の一つでもある。

元来は東京招魂社という名称であったが、後に靖國神社に改称された。招魂社であるので、氏子地域は存在しない(当社所在地は築土神社の氏子地域にあたる)。

創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した。

昭和21年(1946)に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の単立宗教法人となった。

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ご祭神は幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853)のペリー来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀る。

その柱数は平成16年(2004)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。

当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。

この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、昭和34年(1959)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。

従って、現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。

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創建及びその後の経緯については以下のとおりである。

戊辰戦争終戦後の慶応4年(1868)旧暦6月2日に、東征大総督有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行した。

同年旧暦5月10日には、太政官布告で京都東山に戦死者を祀ることが命ぜられた(現 京都霊山護国神社)。

同旧暦7月10・11の両日には京都の河東操錬場において神祇官による嘉永6年(1853)以降の殉国者を慰霊する祭典が行われた。

これらのように幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。

こうした動きを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇の勅許を受けて、明治2年(1869)旧暦6月12日に現社地での招魂社創建が決定された。同月29日(新暦8月6日)に五辻安仲が勅使として差遣され、時の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京招魂社」として創建された。

ただし、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは明治5年(1872)であった。東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があった為に、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て明治12年(1879)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた。

正規な神社となった後も神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、同省と陸軍省および海軍省によって共同管理され、運営の主導権は財政を担った陸軍省が有する等、神社としては特殊な存在ではあった。

創祀以後、春秋の例大祭には勅使が差遣されての奉幣が行われ、また新たに神霊を合祀するに際しても勅使を差遣した他、天皇・皇后の行幸啓を始めとする皇族の親拝や代参も頻繁になされる等、皇室および国家から臣下を祀る神社(別格官幣社)としては特別な殊遇を受け、また合祀祭に当たっては諸官員(公務員)に休日を賜わった。

なお、祭主は陸・海軍武官が勤めた。

昭和7年(1932)、上智大生靖国神社参拝拒否事件が起きた。この事件を受けて、ローマ教皇庁福音宣教省(長官はピエトロ・フマゾーニ・ビオンディ枢機卿)が昭和11年(1936)に訓令「祖国に対する信者のつとめ(Pluries Instanterque)」を駐日教皇庁使節パオロ・マレーラ大司教に宛てて送り、愛国心の表明としての靖国神社参拝が容認された。

昭和15年(1940)には「靖国神社の歌」が制作された。

戦後、GHQは昭和20年(1945)12月15日に神道指令を発布した。

昭和22年(1947)11月には日本遺族厚生連盟が発足、昭和28年(1953)には日本遺族会へと発展した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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2016年5月 1日 (日)

調神社

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つきじんじゃ。埼玉県さいたま市浦和区岸町にある。

式内社。旧県社。

別称「調宮(つきのみや)」。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく狛ウサギがある神社として知られる。

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ご祭神は次の3柱を祀る。

 天照大御神

 豊宇気姫命

 素盞嗚尊

調神社に古くから伝わる七不思議(文末参照)のうちに「松が無いこと」がある。その伝説では、当地に姉神・弟神がいたが弟神は大宮に行ってしまい、姉神が帰りを待っても弟神は帰って来なかったため、姉神はもう待つことを嫌ったという。

この伝説に見える姉神と弟神は、天照大神(当社祭神)と素盞嗚尊(大宮の氷川神社祭神)にあたるといわれる。

他に文献によれば、祭神を瀬織津比咩とする説、調玉命とする説、日の神・倉稲荷玉命の2柱とする説、天照大神・宇賀御玉神の2柱とする説などがあった。

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創建は、社記(寛文8年(1668)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたという。

また、第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び神宮に献上する調物を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野:関東一円)の初穂米・調の集積所と定めたとする。

さらに宝亀2年(771)6月20日には勅使として藤原朝臣常恣が奉幣を行なったので、これが例大祭(現在は新暦7月20日)の起源になったと伝える。

上記伝承の真偽は定かでないが、『式内社調査報告』等においても、社名に「調」と見えることから朝廷への調物(貢ぎ物)を納める御倉が当社の前身になったと想定している。

※「調」は古語で「つき」と読み、みつぎ、年貢のこと。

また、七不思議のうちに「鳥居が無いこと」があるが、これは倭姫命の命により調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったことによると伝えており、この伝承も調神社の前身が御倉であったことを表すものとされる。

そして、伝承中で奉幣があったと伝える宝亀2年(771)には、武蔵国の所属が東山道から東海道に変更おり、この街道変更により調物が通らなくなって役割を終えた御倉が神聖視され、神社として奉斎されるようになったのが実際の創建になると推測されている。

以上とは別に、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もある。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘される。

そのほか、境内に多い槻の木(ケヤキ)と「調」を関連付ける説もある。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では武蔵国足立郡に「調神社」と記載され、式内社に列している。

中世からは、「調(つき)」が「月」と同じ読みであることから月待信仰と結びつくようになった。

延元2年/建武4年(1337)には足利尊氏の命で一色範行による社殿の復興があったが、天正18年(1590)には小田原征伐に伴う兵火で焼失したという。

江戸時代、慶安2年(1649)には徳川家光から朱印地7石が寄進されたが、この朱印状には「月読社」と記されている。

別当寺は月山寺であり、この月山寺にも二十三夜堂が設けられたという。

明治維新後、明治6年(1873)に近代社格制度において郷社に列し、明治31年(1898)に県社に昇格した。

社殿は本殿と拝殿が一体となった権現造で、安政5年(1858)の造営。それまで使用された旧本殿は、境内社の稲荷神社の社殿として現在も使用されている。

また境内の社叢はケヤキ・ムクノキの古木林を形成しており、「調神社の境内林」としてさいたま市指定天然記念物に指定されている。

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摂末社・稲荷神社

社殿は調神社旧本殿。 稲荷神社 社殿は調神社旧本殿。一間社流造で、屋根は銅板葺。棟札によると享保18年(1733)の造営で、安政年間(1854-1860)まで本殿として使用された。

調神社の月待信仰を反映して、多くの兎の彫物が施されている。この社殿はさいたま市指定文化財に指定されている。

調宮天神社、金毘羅神社など境内にはその他数社が鎮座する。

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調神社に伝わる七不思議

1.鳥居が無いこと
 倭姫命の命で、調物の運搬の妨げとなる神門・鳥居を除いたことによるという。
 
2.松が無いこと
 当地に姉神・弟神がいたが、そのうち弟神は大宮にいってしまい姉神が待っても帰ってこなかったため、姉神がもう待つことは嫌いだと言ったことに由来するという。また、姉神が待っているときに境内の松で目を突いたためともいう。
 
3.御手洗池(ひょうたん池とも、現在は消滅)の池に魚を放つと、その魚は片目になること
 
4.兎を使姫とすること
 
5.日蓮聖人駒つなぎのケヤキ
 佐渡島に流罪途中の日蓮が、当地で難産に苦しんでいた女性のためケヤキに駒を繋いで安産祈祷をしたことに由来するという。
 
6.蝿がいないこと
 
7.蚊がいないこと

※以上、文章はWikipediaから抜粋・編集

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氷川神社

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ひかわじんじゃ。埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある。

式内社(名神大社)。武蔵国一宮もしくは三宮。勅祭社。

旧官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。

宮中の四方拝で遥拝される一社。

東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社。

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神社の境内は江戸時代中期まで存在した広大な見沼の畔に立ち、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている(現在の神池は見沼の名残である)。

埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布する。

富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。

また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。

地名の「大宮」は当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する。

埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は平成20年(2008)以降、連年200万人以上が訪れている。

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ご祭神は、主祭神に以下の3柱を祀る。

 須佐之男命 (すさのおのみこと)

 稲田姫命 (いなだひめのみこと)

 大己貴命 (おおなむちのみこと)

しかし、祭神は変遷しており、議論されてきた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』では一座として記載されている。

・日本武尊の東征時、須佐之男命を勧請したとする説(吉田兼永)

・須佐之男命とする説(『大日本神祇史』)

・男体社:須佐之男命(相殿に伊弉諾、日本武尊、大己貴)、女体社:奇稲田姫命(相殿に天照太神宮、伊弉冉、三穂津姫、弟橘媛)、簸王子社:大己貴とする説(『風土記稿』)。

・男体社:伊弉諾、女体社:伊弉冉、簸王子社:軻遇突智とする説(『大宮氷川太明神縁起之書』)。

近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。

三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、江戸時代の元禄12年(1699)三社・三社家を同格とする裁定が下った。

現在の祭神は、天保4年(1833)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。

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創建は社伝によれば、第5代孝昭天皇3年4月の創建されたという。

『国造本紀』では、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。

成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。

社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。

氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。

このアラハバキ社は氷川神社の地主神である。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので、先住の神がアラハバキとみられる。

このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。

『日本三代実録』には神階授与の記載があり、古来から朝廷から崇敬された。平安時代中期の『延喜式神名帳』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、名神大社に列している。また武蔵国の一宮または三宮とされ、国司からも崇敬を受けた。

平安時代後期には、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。

治承4年(1180)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、建久8年(1197)には神馬神剣を奉納している。

徳川家康が関東に入ると、文禄5年(1596)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。

江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、寛永5年(1628)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。

寛文7年(1667)3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立した。

明治元年(1868)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った 。

以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。

明治天皇は明治3年(1870)にも再度参拝された。

昭和天皇も皇太子時代の大正6年(1917)11月12日、天皇に即位した昭和9年(1934)11月に、それぞれ軍事演習視察の帰途に参拝され、昭和42年(1967)10月に夫妻で参拝された。

今上天皇も皇太子時代の昭和38年(1963)に参拝され、昭和62年(1987)7月と天皇に即位した平成5年(1993)5月には夫妻で参拝された。

明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(現 さいたま市北区日進町)へ退転した。

また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備された。

明治15年(1882)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに昭和15年(1940)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。

また、昭和4年(1929)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。この招魂社は昭和14年(1939)3月に分離して埼玉県護国神社となり、同4月には国指定護国神社となった。

昭和41年(1966)7月22日に明治神宮の大鳥居(第二鳥居(木造鳥居では国内最大級))が落雷によって破損したため、新たな鳥居が昭和50年(1975)に竣功。落雷した鳥居は移設され、昭和51年(1976)4月5日に氷川神社に竣功された。これが現在、さいたま市立大宮図書館前にある二の鳥居である(当ページ最初の写真)。このとき、もともとの二ノ鳥居は「裏参道」側に移設されている。

昭和57年(1982)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている。

神階の変遷は以下のとおり。

貞観元年(859年)1月27日、従五位下から従五位上
貞観5年(863年)6月8日、正五位下
貞観7年(865年)12月21日、従四位下
貞観11年(869年)11月19日、正四位下
元慶2年(878年)12月2日、正四位上

いずれも『日本三代実録』に「武蔵国氷川神」と記載。

※以上、文章はWikipediaから抜粋・編集

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