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2016年4月17日 (日)

沼名前神社(鞆祇園宮)

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ぬなくまじんじゃ。広島県福山市鞆町後地にある。

式内社。旧国幣小社。現在は神社本庁の別表神社。

「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」の別称とともに、「祇園さん」の通称がある。

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ご祭神は次の2柱。

主祭神 大綿津見命(おおわたつみのみこと) - 旧渡守神社祭神

相殿神 須佐之男命(すさのおのみこと) - 旧鞆祇園宮祭神

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現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。

神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。

現在の祭神2柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。

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渡守神社

渡守社 本殿奉斎後の旧社。 社伝では渡守神社(現・沼名前神社)の創建に関して、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるという。

そして帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。鞆は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったともいう。

平安時代中期の『延喜式』神名帳では備後国沼隈郡に「沼名前神社」として式内社の記載がある。同帳では読みは「ヌナサキ」「ヌナクマ」の2説がある。その後、この式内社は所在不明となっていた。

近世以後の考証で現在は渡守神社に比定されているが、鞆にあるのか自体も明らかとなってはいない。 近世には、渡守神社は猿田彦神・船魂命(船玉命)を祭神としていたという。

元は後地平村もしくは鞆の関町にあったともいわれ、慶長年間(1596-1615)に祇園社の境内社として現在地に遷座したと伝えられる。明暦年間(1655-1658)には、藩主水野勝貞によって社殿が再建された。

 

鞆祇園宮

神社側は、鞆祇園宮の創建については不詳であるとしている。天長年間(824-834)の創建とも、保元年間(1156-1159)の勧請によるとも伝えられる。 祭神は、現在同様素盞鳴命(須佐之男命)であった。

元は鞆の関町に鎮座していたが、慶長4年(1599)の火災で焼失し、現在地に遷座したという。

この鞆祇園宮を『備後国風土記』逸文に見える「疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)」にあてる説もある。

当社は鞆の産土神として崇敬され、福山藩主からも多くの寄進を受け、社地も有していた。

 

江戸時代、当地には鞆祇園宮が鎮座、その境内社に渡守神社があった。

明治元年(1868)、鞆祇園宮は「素盞鳴神社」と改称。

明治4年(1871)、この素盞鳴神社をもって式内社とし、「沼名前神社」と改称、近代社格制度において国幣小社に列格。

明治8年(1875)5月、渡守神社をもって式内社とすると改める。

明治9年(1876)7月、渡守神社の神霊を本殿に奉斎、祇園神は相殿に改める(主従逆転)。渡守社祭神の船玉命は、大綿津見命と改められた。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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本殿の右側に境内摂末社があった。

左から、八幡社。

その右の小さな3つの社は、竈社・塞社、松尾社・稲荷社・地主社、厳島社・昆社。

その右に渡守社。いちばん奥が護国神社。

 

鞆の浦の町の奥にあり、車で住宅街の細い道を進むと、鳥居の前まで来ても参拝客用の駐車場が見当たらず、海岸の駐車場まで引き返して停めた。

鞆の浦は東側が海に面しているので、山側の神社を仰ぐと時間的に逆光気味になり、写真が撮りにくかった。

境内に森下仁丹の創始者・森下博銅氏の像があったようだが、広島に戻ってレンタカーを返す時間が気になり、見逃してしまったのは残念だ。

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