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2016年4月23日 (土)

王子稲荷神社

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おうじいなりじんじゃ。東京都北区岸町にある。

東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名。

ご祭神は、宇迦之御魂神、宇気母智之神、和久産巣日神を祀る。

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古くは岸稲荷と号した。

『新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十』に、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座したことから名付けられたという。

また、治承四年に源頼朝より奉納を得たという。

徳川家康が王子稲荷、王子権現、両社の別当寺であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域での存在を大きくした。

毎年大晦日の夜、諸国の狐、社地の東、古榎のあたりにあつまり、装束をあらためるといい、江戸時代は狐火で有名だった。

『江戸砂子』王子稲荷の段にその狐火のことが記されている。

狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ。

狐火にわうじ田畑のよしあしを知らんとここに金輪寺かな 年毎に刻限おなじからず、一時ほどのうちなり。宵にあり、あかつきにありなどして、これを見んために遠方より来るもの空しく帰ること多し、一夜とどまれば必ず見るといへり。

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近年「関東八州」の稲荷の総社と紹介されるようになっているが、元来は東国三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた。 社伝には「康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」 とある。

この「関東」を中世以来別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国」と解釈してきた。

三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「若一王子縁起」(紙の博物館蔵)の付箋が示す通り江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた。

寛政の改革時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった。

『新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十』は、王子稲荷について

当社は(王子)権現の末社の如く聞こえたれど左にあらず、金輪寺中興宥養(家康と昵懇の間柄の高僧)を王子両社(王子権現と王子稲荷)の別当に補せらると云うに拠っても知らるる、

と記している。

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王子稲荷は江戸町民からいちばんの人気であった。江戸の名所として絵画にも描かれている。歌川広重は『名所江戸百景』において王子稲荷を描いた。

三代歌川豊国(国貞)には、弘化4年(1848)から嘉永5年(1852)の間に出版された三枚続きの浮世絵「王子稲荷初午祭ノ図」があり、善光寺の絵の表題を変えたものという説もあるとのこと。

明治時代、乃木希典夫妻の崇敬が篤かったことから、昭和37年(1962)に至り、乃木神社に赤坂王子稲荷神社として分霊された。

毎月午の日が縁日で、2月初午の日、二の午、三の午には賑わう。 社務所にて火防(ひぶせ)の凧、守札がだされ、境内にも凧を売る店が立つ。

毎年大晦日、除夜とともに「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かって賑わいを見せる。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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参道の石段の右側に厳島神社がある。

 

上述のように王子稲荷は有名で、落語や美術にも登場する。先日お参りした乃木神社にも勧請されていたので、日を置かずお参りに訪れた。

狐火の話は興味深い。農民は狐火を見て豊作か凶作か占ったという。一晩いれば必ず見られるというのは相当なものだったのだろう。近くで人がたくさん亡くなってリンが多かったのかもしれないな。

善光寺を描いた絵の表題を変えたという説も面白い。真実ならそれほど人気があって売れたということだろう。社務所に浮世絵の絵はがき(5枚セット)を置いてあり、10種類もあるので、選ぶのに迷った。狐が描かれている第四集にした。360円。

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