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2016年4月10日 (日)

伊須流岐比古神社

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※Wikipediaより抜粋・編集

いするぎひこじんじゃ。石川県鹿島郡中能登町の石動山山頂(大御前)にある。

伊須留岐比古神社とも表記される。

式内社。能登国二宮。旧郷社。

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ご祭神は伊須流岐比古神(石動彦)、白山比咩神を祀る。

このうち、主神の伊須流岐比古神は、すなわち五社権現とも称される石動権現である。

「いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだという。

伊須流岐比古神社は石の鳴動を鎮め、その石を神として祭るべく創建されたと伝わる。

明治期以降の国家神道の下で権現の名称は否定され、現在は伊須流岐比古神または石動彦と呼ばれている。 相殿神として、白山比咩神が祭られている。

なお、石動彦と白山比咩神は、イザナギ、イザナミとしても扱われている。かつての本地仏は、虚空蔵菩薩(伊須流岐比古神)、十一面観音(白山比咩神)であった。

かつては、白山と並ぶ北陸地方を中心として広い地域からの尊敬を集める一大霊山であった。

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拝殿と本殿

創建は養老元年(717年)白山を開いた泰澄により開山したと言われているが、崇神天皇6年(紀元前92年)説もある。泰澄開山は新縁起によるもので、旧縁起は違う人物が開山したとある。

治承4年(1180年)に藤原家通が参拝し、以降は勅願寺として保護され、尊敬を受ける。神仏習合の形態であり、伊須流岐比古神社は真言宗寺院の「石動山天平寺」を称していた

天平寺は、院坊360余、衆徒約3,000人の規模を誇った。 中世以降、しばしば焼き討ちにあっては再建された。南北朝時代には足利尊氏の軍に焼き討ちにされた後、暦応4年(1341年)に尊氏の手で再建され、能登国守護の畠山氏により保護された。

天正10年(1582年)、上杉謙信死後に七尾に攻め込んだ前田利家に率いられた織田軍と、上杉方についた畠山軍との合戦に巻き込まれ、全山焼き討ちに遭い、またもや焼失したが、翌天正11年(1583年)に、勅命により豊臣秀吉の手で再興された。

現存する本殿は、承応2年(1653年)に加賀藩主前田利常により建てられたものであり、建立当時は「大宮」と呼ばれていた。

明治5年(1872年)、神仏分離令により寺号を廃し郷社に列した。その際、廃仏毀釈が行われ、石動山全山に渡って伽藍・院坊が破壊され、寺としての痕跡は徹底的に破却された。その後、わずかに残された大宮を御輿堂の場所に移設して、それぞれ本殿・拝殿とした。

 

富山県射水市の放生津八幡宮では江戸時代より、高岡市の二上射水神社では明治期に休止となり、昭和31年(1956年)より復活し現在も行われている、全国的にも珍しい古代信仰の形態である築山行事が行われているが、ここ伊須流岐比古神社でも明治期まで行われていた。

なお、3ケ所の主神の見た目から、放生津の「足なし」、二上山の「手なし」、石動山の「口なし」といわれてきた。

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復元された大宮坊

現在、地元自治体の手によって発掘調査が継続的に行われており、当時の全貌の解明が進められている。さらに、大宮坊が復元されるなど、史跡公園としての整備を行っている。

 

前年10月下旬に来たときは林道の整備工事で通れず断念し、麓の天日陰比咩神社にお参りした。本当は再度違う道から上がれたかもしれないのに断念したのだった。冬は史跡公園の資料館が閉鎖されるので、春になってから再度訪れた。こちらは現在は誰もお祀りをしていない。近所の資料館では三種の神器が展示されている始末であった。知人の車に乗せて行ってもらったが、道路の処々落ちてきた石が転がっており、林道が整備されていた静岡県の秋葉山本宮秋葉神社とは登り坂の様子が違った。

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