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2016年4月

2016年4月30日 (土)

一宮巡拝一覧

2013年のGWに観光で出雲大社や神宮、熊野三山に初めて訪れたことを契機に、神社への巡拝を始めた。

始めてみると一宮(いちのみや)への参拝が多いので、まずはwikipediaの「一宮」の項目に掲載されていた表を参考にお参りすることにした。

※印は参拝した時間などの問題で、ご朱印をいただかなかったお社、▲印は山の頂上や海上などにある本宮・奥宮・奥社にまだお参りしていないお社。
     

<畿内(五畿)>

山代国 加茂別雷神社  加茂御祖神社
摂津国 住吉大社  坐摩神社
大和国 大神神社▲ 
和泉国 大島神社
河内国 枚岡神社  片埜神社 

<東海道> 

伊賀国 敢国神社
伊勢国 椿大神社  都波岐奈加等神社
志摩国 伊雑宮(神宮内宮別宮)  伊射波神社
尾張国 真清田神社  大神神社
三河国 砥鹿神社
遠江国 小国神社  事任八幡宮
駿河国 富士山本宮浅間大社
伊豆国 三嶋大社
甲斐国 浅間神社
相模国 寒川神社   鶴岡八幡宮
武蔵国 氷川神社中山神社※・氷川女体神社  小野神社
安房国 安房神社  洲崎神社
上総国 玉前神社
下総国 香取神宮
常陸国 鹿島神宮

東山道> 

近江国 建部大社
美濃国 南宮大社
飛騨国 飛騨一宮水無神社
信濃国 諏訪大社(上社本宮・前宮、下社春宮・秋宮)
上野国 一之宮貫前神社
下野国 宇都宮二荒山神社  二荒山神社(日光)▲
陸奥国 鹽竈神社・志波彦神社  都都古和気神社(八槻)
      都都古別神社(馬場)  石都々古和気神社
出羽国 鳥海山大物忌神社(蕨岡口、吹浦口)
   

<北陸道> 

若狭国 若狭彦神社・若狭姫神社
越前国 氣比神宮
加賀国 白山比咩神社▲  石部神社
能登国 気多大社
越中国 射水神社  気多神社  高瀬神社
     雄山神社(前立社檀、中宮祈願殿※)▲
越後国 彌彦神社▲  居多神社  天津神社
佐渡国 度津神社
  

<山陰道>

隠岐国(隠岐島)の2つが残っている。

丹波国 出雲大神宮
丹後国 元伊勢籠神社
但馬国 出石神社  粟鹿神社
因幡国 宇倍神社
伯耆国 倭文神社
出雲国 出雲大社  熊野大社
石見国 物部神社
隠岐国  

<山陽道> 

播磨国 伊和神社
美作国 中山神社
備前国 吉備津彦神社  石上布都魂神社▲  安仁神社
備中国 吉備津神社
備後国 吉備津神社  素盞嗚神社
安芸国 厳島神社
周防国 玉祖神社
長門国 住吉神社

<南海道>

紀伊国 日前神宮・國懸神宮  丹生都比売神社
      伊太祁曽神社
淡路国 伊弉諾神宮
阿波国 大麻比古神社
      上一宮大粟神社※  一宮神社※  八倉比売神社
讃岐国 田村神社
伊予国 大山祇神社
土佐国 土佐神社

<西海道>

宮崎、屋久島に1つずつある。

筑前国 筥崎宮   住吉神社
筑後国 高良大社
豊前国 宇佐神宮
豊後国 柞原八幡宮  西寒多神社
肥前国 與止日女神社   千栗八幡宮
肥後国 阿蘇神社
日向国
大隅国 鹿児島神宮
薩摩国 新田神社   枚聞神社
壱岐国 天手長男神社   興神社
対馬国 海神神社   厳原八幡宮
多禰国  

ここまでが令制國五畿七道の一宮やその論社、一宮争いをした神社で、 

 
<新一の宮>

全国一の宮会が設け、認定する呼称で6社ある。北海道、青森、沖縄の3つが残っている。

蝦夷国
津軽国
陸中国 駒形神社
岩代国 伊佐須美神社
知知夫国 秩父神社
琉球国  

<北海道内の一宮>

渡島国(2社)
石狩国
北見国

十勝国
釧路国

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龍神おみくじ(田無神社)

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第十四番

風さわぐ 秋の夕(ゆうべ)は 行舟(ゆくふね)も

 いりえしずかに 宿を定めて

何事も進んですることはいけません 心静かに諸事控え目にして是までの職業を守り 身を慎んで勉強なさい 其内に悪い運気去って幸福の時が来ます

運勢 末吉

 

龍神さまのおみくじは奈良の丹生川上神社・中社でもひいた。あちらはもう少しマンガチックな造形だった。

こちらは神社の由緒である四方を護る龍神さま、中心にいる龍神さまで計5色のおみくじが用意してあり、造形もユーモラスでよくできている。

北方の青い龍神さまに魅かれたが、最初なので金色のものにした。

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杵築大社

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きづきたいしゃ。東京都武蔵野市境南町にある。

旧村社。

ご祭神は大國主大神と事代主大神を祀る。

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創建については以下のとおりである。

慶安年間(1648-1651)、結城秀康の三男で徳川家光の従兄弟に当たる松江藩初代藩主・松平直政が当所12町四方を将軍家より賜り、御用屋敷を設けて鷹狩場とした。

直政がその御用屋敷内に出雲の杵築大社(現在の出雲大社)と稲荷社を勧請したのが当社の始まりである。

貞享年間(1684-1687)に松江藩御用屋敷は幕府の直轄地となったが、神社は残され、当地・境本村の氏神とされた。

明治6年(1873)12月、堺村の鎮守として村社に列格した。

昭和21年(1946)11月、出雲の美保神社より事代主大神を勧請し、「えびす・だいこく」の二福神を祀る神社となった。

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拝殿左側に稲荷社がある。

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その後方に小さな祠があった。

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拝殿右側に八坂神社がある。

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三多摩に現存するものでは2番目に規模の大きい富士塚を擁している。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

 

JR中央線武蔵境駅の南口から500m、歩いて6、7分の距離にある。杵築大社時代の出雲大社から勧請された由緒ある神社。

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田無神社

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たなしじんじゃ。東京都西東京市田無町三丁目にある。

ご祭神は、大国主命、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん:龍神)、須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武尊命、大鳥大神、応神天皇を祀る。

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田無神社の創建は、鎌倉時代後期の正応年間(1288-1293)と伝わる。

同社は田無北部の谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれ、龍神を祭神としていた.

江戸時代初期、徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、城や町の建造のために大量の石灰を必要とした。家康は、石灰を青梅の地に求め、青梅街道を開いたが、その際、肥沃な谷戸の住人が南の青梅街道沿いに移住し、宿場町・田無を造営した。

この動きの中で、元和8年(1622)、宮山に鎮座する尉殿大権現が上保谷に分祀され、正保3年(1646)、宮山から田無(現在地)に分祀され、寛文10年(1670)、宮山に残っていた尉殿大権現の本宮が田無に遷された。

明治5年(1872)、尉殿大権現は熊野神社、八幡神社を合祀、田無神社と社名を改めた。その際、主祭神・大国主命と須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武尊命、大鳥大神、応神天皇をも祀り、現在に至っている。

平成23年(2011)、東日本大震災により、参道の二之鳥居と西側の鳥居が倒壊、本殿の基壇のずれ、拝殿と覆殿の屋根の一部損壊、拝殿と幣殿の彫刻の破損などの被害を受けた。

平成25年(2013) 6月30日、東日本大震災により受けた被害が復興した。7月27日、正遷座祭が執り行われ、国旗掲揚台が奉納された。

※以上、文章は当社公式ホームページ、Wikipdiaより抜粋・編集

上述の谷戸から田無への移住の経緯については、当社の由緒書きに書かれていて興味深い。

江戸時代初頭、幕府直轄領であった田無の人々は、大久保長安の指示に従い、水の豊かな谷戸周辺から水に恵まれていない田無に移り住み、江戸城や江戸の町作りのための伝馬継ぎとして青梅街道に沿って宿場町を形成しました。移りすんだ直後は生活用水にさえ困り、人々は谷戸まで水をくみに行く生活を余儀なくされました。このような状況は元禄九年(1696年)に田無用水が玉川上水から分水されるまで続きました。

水田ができない土地だから田無という地名になったわけだ。

 

境内には、四方に龍神が祀ってあり、拝殿にも大きな龍の彫刻がある。

また、稲荷社、津島神社など摂末社も多い。

拝殿の右奥に土俵があり、5月には商工会議所主催でわんぱく相撲が開催されるようだ。

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この日は鯉のぼりがあった。4月から飾られているようだ。

全長15mの総檜づくりの竿だそうである。

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東伏見稲荷神社

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ひがしふしみいなりじんじゃ。東京都西東京市にある。

京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創建された。

東伏見という地名はこの神社が出来てからついた地名で、それにあわせて西武新宿線の駅名も上保谷から東伏見に変更された。

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ご祭神は伏見稲荷大社の祭神の中から、宇迦御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神の3柱を勧請し、この3座を「東伏見稲荷大神」と総称している。

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創建は、関東地方の稲荷神を信仰する信者たちの希望により、昭和4年(1929)に稲荷神の総本社である伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建された。

戦前、中島飛行機の社員研修所があり、鍛錬教育が行われていた。このため、中島飛行機武蔵野製作所でなくなった人々の慰霊碑がある。

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勧請の新しさからか、規模は大きいが近代社格制度下で社格が与えられることはなかった(旧無格社)。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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本殿の後方にお塚と呼ばれるたくさんのお社が祀ってあり、お参りできるようになっている。

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社地全景

最初の写真は西武新宿線の東伏見駅南口を出て、右に出て、線路脇の道路の入り口にあった鳥居。

手前が交番で写真を撮っていたら、若い警官から「今日は何かあるんですか」と訊かれた。何人かに東伏見稲荷神社への道を訊かれたのだろうな。

住宅街を10分くらい歩いていくと社叢が見えて、上の写真のような社地が目の前に現れた。

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赤城神社(新宿区)

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あかぎじんじゃ。東京都新宿区赤城元町にある。

明治維新までは赤城大明神や赤城明神社と呼ばれた。牛込総鎮守。

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ご祭神は岩筒雄命を祀り、相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀る。

岩筒雄命は火の神である迦具土神より生まれ、経津主神の親神にあたるという。

赤城姫命は一説によると神社を創建した大胡氏の息女と伝わり、別当寺である東覚寺の本地仏であった。

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創建は、鎌倉時代の正安2年(1300)、上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる。

寛正元年(1460)、江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移された。その後、弘治元年(1555)、大胡宮内少輔により現在地に移された。

天和3年(1683)、徳川幕府により江戸大社に列し、牛込の鎮守として信仰を集めた。

日枝神社、神田明神とともに「江戸の三社」と称された。 この三社による祭礼の際における山車、練物等は江戸城の竹橋から内堀に入り、半蔵門に出ることを許されていた。

『江戸名所図会』では「赤城明神社」として紹介され、大胡重泰(おおごしげやす)により創建されたこと、牛込の鎮守であり別当寺は東覚寺(天台宗)であることなどが記されている。

天保13年(1842)3月7日:火災により社殿が全焼。後に再建。

明治元年(1868)、明治維新に際し、名を赤城神社と改める。

明治6年(1873)、郷社に列する。

明治9年(1876)、横寺町の北野神社(朝日天満宮)を境内社として遷座。

昭和20年(1945)4月13日、戦災により、社殿全焼。 昭和26年(1951)10月、本殿を再建。

昭和34年(1959)5月、拝殿・幣殿を再建。 昭和37年(1962)10月:境内社の出世稲荷神社社殿を再建。

平成17年(2005)10月、戦災で焼失していた境内社の北野神社を、蛍雪天神として再興。

平成20年(2008)3月、境内に隣接する私立赤城幼稚園を閉園。 平成22年(2010)9月、「赤城神社 再生プロジェクト」に伴う建て替え完成。

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境内社・出世稲荷神社

ご祭神は宇迦御魂命、保食命。牛込赤城元町の鎮守。

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境内社・蛍雪天神(左の建物)

ご祭神は菅原大神。戦災で焼失した北野神社を、旺文社の寄付により再興したもの。蛍雪天神の名は『螢雪時代』に由来し、受験生の合格を祈願する。

※以上、文章は当社公式ホームページ、Wikipdiaより抜粋・編集

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ゲゲゲの鬼太郎と目玉おやじのお守り 初穂料1000円。

当社だけのものらしい。

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2016年4月23日 (土)

鎧神社(新宿区)

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よろいじんじゃ。東京都新宿区北新宿3丁目にある。

旧称「鎧大明神」。

ご祭神は、日本武命、大己貴命、少彦名命、平将門公を祀る。

創建の由来は、醍醐帝の治世(898-929)に円照寺が創建され、寺の鬼門鎮護の神祀として鎧大明神が創建されたと言われている。

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天暦(947-)の初めに平将門公の鎧を埋めたという伝承がある。

明治中頃に天神社を摂社として境内に移設した。

日本武命が東征の際、甲冑六具の内をこの地に蔵めたと伝わる。

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摂社・天神社

元々、柏木北公園(北新宿四丁目)の地に鎮座していて、成子天神社の元の社でもあるので元天神とも称する。

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末社・稲荷神社、 三峯神社、子の権現

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

 

JR総武線の大久保駅と東中野駅の真ん中くらいの位置にあり、線路に近い住宅地のなかを歩いていくとお参りできる。

朝、最初にお参りするはずがいつもの習慣で中央線に乗ってしまい、大久保駅で降りられなかったので、先にほかの神社をお参りした。新大久保駅からてくてく歩き、15時くらいに訪れたので、ご朱印受け付けの時間は過ぎてしまっていた。

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王子稲荷神社

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おうじいなりじんじゃ。東京都北区岸町にある。

東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名。

ご祭神は、宇迦之御魂神、宇気母智之神、和久産巣日神を祀る。

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古くは岸稲荷と号した。

『新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十』に、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座したことから名付けられたという。

また、治承四年に源頼朝より奉納を得たという。

徳川家康が王子稲荷、王子権現、両社の別当寺であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域での存在を大きくした。

毎年大晦日の夜、諸国の狐、社地の東、古榎のあたりにあつまり、装束をあらためるといい、江戸時代は狐火で有名だった。

『江戸砂子』王子稲荷の段にその狐火のことが記されている。

狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ。

狐火にわうじ田畑のよしあしを知らんとここに金輪寺かな 年毎に刻限おなじからず、一時ほどのうちなり。宵にあり、あかつきにありなどして、これを見んために遠方より来るもの空しく帰ること多し、一夜とどまれば必ず見るといへり。

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近年「関東八州」の稲荷の総社と紹介されるようになっているが、元来は東国三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた。 社伝には「康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」 とある。

この「関東」を中世以来別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国」と解釈してきた。

三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「若一王子縁起」(紙の博物館蔵)の付箋が示す通り江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた。

寛政の改革時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった。

『新編武蔵風土記稿巻之十八 豊島郡之十』は、王子稲荷について

当社は(王子)権現の末社の如く聞こえたれど左にあらず、金輪寺中興宥養(家康と昵懇の間柄の高僧)を王子両社(王子権現と王子稲荷)の別当に補せらると云うに拠っても知らるる、

と記している。

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王子稲荷は江戸町民からいちばんの人気であった。江戸の名所として絵画にも描かれている。歌川広重は『名所江戸百景』において王子稲荷を描いた。

三代歌川豊国(国貞)には、弘化4年(1848)から嘉永5年(1852)の間に出版された三枚続きの浮世絵「王子稲荷初午祭ノ図」があり、善光寺の絵の表題を変えたものという説もあるとのこと。

明治時代、乃木希典夫妻の崇敬が篤かったことから、昭和37年(1962)に至り、乃木神社に赤坂王子稲荷神社として分霊された。

毎月午の日が縁日で、2月初午の日、二の午、三の午には賑わう。 社務所にて火防(ひぶせ)の凧、守札がだされ、境内にも凧を売る店が立つ。

毎年大晦日、除夜とともに「大晦日狐の行列」が王子稲荷へ向かって賑わいを見せる。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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参道の石段の右側に厳島神社がある。

 

上述のように王子稲荷は有名で、落語や美術にも登場する。先日お参りした乃木神社にも勧請されていたので、日を置かずお参りに訪れた。

狐火の話は興味深い。農民は狐火を見て豊作か凶作か占ったという。一晩いれば必ず見られるというのは相当なものだったのだろう。近くで人がたくさん亡くなってリンが多かったのかもしれないな。

善光寺を描いた絵の表題を変えたという説も面白い。真実ならそれほど人気があって売れたということだろう。社務所に浮世絵の絵はがき(5枚セット)を置いてあり、10種類もあるので、選ぶのに迷った。狐が描かれている第四集にした。360円。

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王子神社

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おうじじんじゃ。東京都北区王子本町にある。

旧称王子権現。この一帯の「王子」という地名の由来である。

旧准勅祭社。

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創建は不詳である。康平(1058-1065)年間に、源義家が奥州征伐のおり、当地で金輪仏頂を修法、凱旋の日に甲冑を奉納した。

文保(1317-1319)および元弘(1331-1334)年間に、当地の領主豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮の浜王子より「若一王子宮」を改めて勧請・奉斎、王子神社となった。

明治初期に准勅祭社に指定された(※准勅祭社の制度はすぐになくなった)。

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昭和20年(1945) 戦災で社殿を焼失した。昭和39年(1964)、昭和57年(1982)の二回の造営を経て社殿を再建した。

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関神社

主祭神は、蝉丸公(神霊)、逆髪姫(神霊)、古屋美女(神霊)を祀る。

「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君「逆髪姫」のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」、「髪の祖神」と崇敬を集めていて、「関蝉丸神社」として、滋賀県大津の逢坂山に祀られている。

その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代に奉斎された。

昭和20年(1945) 戦災で社殿を焼失した。昭和34年(1959)5月24日、全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の浄財により再建を果たした。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

立て札の「髪の祖神」や「毛塚」のほうに目が行ってしまう。

王子神社は東京十社参りで3年前に一度お参りした。空襲で一度焼けてしまい、再建に時間を要したようだが、立派な神社になって祭祀が続けられている。

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花園神社

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はなぞのじんじゃ。東京都新宿区新宿3丁目にある。

旧郷社。

ご祭神は、倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の三柱の神を祀る。

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創建については不詳である。徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在しており、大和国吉野山より勧請したと伝わる。

その後、当地に内藤新宿が開かれるとその鎮守として祭られるようになった。元は現在地よりも約250メートル南にあったが、寛政年間、その地を朝倉筑後守が拝領しその下屋敷の敷地内となって参拝ができなくなった。氏子がその旨を幕府に訴えて、尾張藩下屋敷の庭の一部である現在地を拝領し、そこに遷座した。そこは多くの花が咲き乱れていた花園の跡であることから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられる。

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また、真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも、地名から「四谷追分稲荷」とも呼ばれた。

明治に入り近代社格制度で村社に列格したが、その際、名称は単に「稲荷神社」となった。一説には届出の際に「花園」を書き忘れたという。

大正5年(1916)1月25日に東京府知事に対し改名願を出し、同年2月26日に許可され「花園稲荷神社」に改称した。

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※拝殿正面の参道の入り口にある鳥居の横に「花園稲荷神社」の社号標がある

 

昭和3年(1928)、現新宿4丁目にあった雷電稲荷神社(雷電神社/祭神:受持神)を合祀、郷社に昇格した。

昭和40年(1965)、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神:日本武尊)を本殿に合祀し、社名を「花園神社」に改めた。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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威徳稲荷神社

 

新宿の繁華街に近く、場所柄、参拝者の絶えない神社で、ご朱印をいただくのも数人待ちであった。

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2016年4月22日 (金)

二宮神社(船橋市)

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にのみやじんじゃ。千葉県船橋市三山にある。

式内社論社。下総国二宮。旧郷社。 古くは「三山明神」、「二宮明神」とも称した。

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ご祭神は、建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと)

櫛稲田比売命 (くしなだひめのみこと)

大国主命 (おおくにぬしみこと)

藤原時平命 (ふじわらのときひらのみこと)

大雀命 (おおさざきのみこと)近隣の無格社・若宮八幡神社を合祀

誉田別命 (ほんだわけのみこと) 摂社・阿波八幡神社を合祀

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創建は、社伝によれば、弘仁年間(810-824)、嵯峨天皇の勅命によるという。平安時代中期の『延喜式』神名帳には「下総国千葉郡 寒川神社」の記載があるが、当社はその論社とされている。

また、下総国の二宮として朝廷からの崇敬をうけたという(ただし旭市の玉崎神社も二宮を称する)。

二宮神社と呼ばれ始めた時期は不明であるが、乾元2年(1303)銘の梵鐘(成田市祥鳳院蔵)に「総州二宮社壇」とあることから鎌倉時代にはすでにこの呼称があったことがわかっている。

また、治承4年(1180)に藤原師経が左遷された際、藤原時平が相殿に合祀されたという。藤原時平は菅原道真の政敵であるため、天神の氏子は当社に参拝しなかったと伝わる。

三山氏が先祖代々神官を務めた。地名同様「三山」の名は古くは「御山」と見え、当社に起因する。

天正19年(1591)には徳川家康から朱印地10石を与えられたほか、江戸幕府将軍からの寄進は幾度にも及んだ。

安政5年(1858)刊の『成田参詣記』では「三山明神社(みやまみょうじんやしろ)」の図の挿絵とともに紹介されている。

明治の近代社格制度で郷社に列した。

また、明治43年に若宮八幡神社と元摂社・阿波八幡神社を合祀した。

古来より「注連下」(氏子の区域)は21・3ヶ村(現在の船橋市東部・北部、習志野市、八千代市、千葉市西部)にまたがる広大な地域に達し、現在でも例祭などで、その影響力を見ることができる。

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現在の社殿は安永年間(1772-1781)に再建されたものである。本殿・拝殿とも屋根は銅板葺であるが、本殿は大正11年(1922)10月に、拝殿は大正14年(1925)に茅葺屋根から葺き替えられた。

この社殿の平面形式は江戸時代に流行した権現造だが、拝殿から幣殿にいたる床面の高さは同じになるようになっている。また、軒の組物及び腰組も当時の正規の宮大工の手法によって意匠と造作がなされている。

昭和53年(1978)10月25日に船橋市の有形文化財に指定された。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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千葉神社

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ちばじんじゃ。千葉県千葉市中央区にある。

旧県社。

ご祭神は、主祭神に北辰妙見尊星王(天之御中主大神)、相殿に経津主命・日本武尊を祀る。

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分霊社・尊星殿(中央:福徳殿、左:日天楼、右:月天楼)

創建については、千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立され、千葉氏の祖平忠常の子覚算大僧正によって伽藍が整備されたと伝えられる。

以降、千葉宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われた。

また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていた。

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千葉妙見宮には本来、妙見菩薩とともに養和元年(1181)に千葉常胤によって鶴岡八幡宮から勧請された八幡神が祀られていた。当初は八幡神が弓箭神とし、妙見菩薩は鎮守・産土神・農耕神的な役割を担っていた。

しかし、千葉氏の一族が多数連座した宝治合戦で一族が動揺した時期(13世紀中期)に、一族の団結を維持するために従来の八幡神に代えて、千葉氏を含めた房総平氏において独自の篤い信仰を受けていた妙見菩薩に弓箭神の要素を加えて、千葉氏が妙見菩薩を庇護された存在であることを強調する“妙見説話”が形成された。

その集大成が『源平闘諍録』であり、後世に千葉妙見宮(千葉神社)を描いた縁起絵巻にも反映された(現在も末社の1つに八幡神社があるのはその名残である)。

天正19年(1591)徳川家康が関東に入部し、この寺を参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を寄進したとされ、同時に朱印地200石と十万石の格式が与えられた。

江戸時代には北斗山金剛授寺尊光院と称する真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって神社となり、本尊も祭神に改められた。

ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、同社は日本有数の「妙見信仰」の中心とされてきている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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摂社・千葉天神

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末社。奥から姥神社、星神社、石神社、稲荷神社、金刀比羅宮、西之宮。

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末社。右から、八幡神社、天神社、日枝神社、三峯神社、神明社。

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末社・御嶽社

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末社・厳島神社

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末社・美寿之宮

 

この3月、4月で熊本県の八代神社、福岡県の足立山妙見宮をお参りして、妙見信仰に関心が出てきて、いつかはお参りしたいと考えていたが、割合早く実現した。

JR千葉駅東口から800mくらいの距離で、徒歩12,3分。鉄道で行ってもお参りしやすい立地にある。

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2016年4月21日 (木)

湯島天満宮

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ゆしまてんまんぐう。東京都文京区湯島にある。

旧府社。神社本庁の別表神社。

神紋は「加賀梅鉢紋」。

旧称は湯島神社で、通称は湯島天神。平成12年(2000)3月31日、「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称した。

ご祭神は、

 天之手力雄命 (あめのたぢからをのみこと)

 菅原道真公 (すがわらのみちざねこう)

を祀る。

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創建は、社伝によれば、雄略天皇2年1月、雄略天皇の勅命で天之手力雄命を祀る神社として創建されたと伝えられている。

南北朝時代の正平10年(1355)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。この時をもって正式な創建とする説もある。

当の湯島天満宮は458年創建(雄略天皇2年を機械的に西暦に換算した年数)としている。

徳川家康が江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受けた。江戸時代には多くの学者・文人が訪れ崇敬を集めた。

享保期には富籤の興行が盛んとなり、江戸の三富の一つとして庶民に親しまれた。

明治5年近代社格制度で郷社に列し、明治18年に府社に昇格した。

平成13年(2001)、神社本庁の別表神社に指定された。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため、受験シーズンに限らず、多数の受験生や家族が合格祈願に訪れる。この日も拝殿の前で熱心に唱え言をしていた女性がいた。

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金刀比羅宮(虎ノ門)

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とらのもん・ことひらぐう。東京都港区虎ノ門一丁目にある。

敷地内には、金刀比羅宮との複合施設として高層オフィスビルの虎ノ門琴平タワーがあり、社務所や神楽殿といった施設と一体化している。

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ご祭神は、大物主神、崇徳天皇を祀る。

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万治3年(1660)、讃岐丸亀藩藩主・京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請した。

延宝7年(1679)、丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座。

平成13年(2001)11月28日、東京都選定歴史的建造物に選定される。

平成16年(2004)11月30日、虎ノ門琴平タワーが竣工。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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結神社(左)、喜代住稲荷神社(右)。

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出雲大社東京分祠

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いずもおおやしろ・とうきょうぶんし。東京都港区六本木にある。

島根県の出雲大社からの分祠である。

ご祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。

康治元年(1142)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。

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出雲大社東京分祠の創建は、明治11年(1878)1月11日、出雲大社八十代宮司で出雲大社教の第八十代国造・初代管長である千家尊福(せんげたかとみ)が、「東京及び東日本の御神徳宣布」のため、神田にある神田明神社務所内に、東京出張所を設けたことによる。

神田明神は出雲大社と祭神が同じだけでなく、当時の宮司は平田篤胤学派の平田盛胤でその関係も深く、初代の出張所長は本居宣長の学統を継ぐ本居豊穎(もとおりとよかい、本居宣長の曾孫、屋号秋屋)で、祭神論の当時は東京における出雲派の拠点だった。

明治15年(1882) 3月1日、明治政府の神官教導職分離令を受ける。4月4日、東京出張所は東京府麹町区上二番町47番地に移転した。東京出張所に神殿を設立し、千家尊福が出雲より分霊を奉じて鎮祭し、ここに出雲大社東京分祠が建立された。

明治16年(1883) 5月4日、明治政府の宗教政策により神職による布教が禁じられた。出雲大社東京分祠神殿落成。5月11日、出雲大社東京分祠神霊祭斎行。5月12日、神道総裁有栖川宮幟仁親王の臨席を仰いで落成式を行い、神殿には親王の筆になる「経国治幽」の額が掲げられた。

明治22年(1889) 8月25日、前管長千家尊福より麻布区材木町(現 港区六本木七丁目)38番地より40番地まで(現在地)の地所を東京分祠に寄せられるにつき、永久維持の計画をし、行政の許可を得て、神殿はじめ附属建物共有の移転工事を着工。10月15日、東京分祠を麻布区材木町に移転完成。

 

出雲大社

神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。

出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在sするので、すべての神が出雲に出向くわけではない。

そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれ、全国的な信仰をあつめるようになった。

二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在、第六代東京分祠長、東京出張所長、千家活彦(せんげいくひこ)が務める。

宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく、黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んである。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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乃木神社

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のぎじんじゃ。東京都港区赤坂八丁目、乃木夫妻が明治天皇大葬の日に自刃した邸宅の隣地にある。

旧府社。現在は神社本庁の別表神社。

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ご祭神は乃木希典将軍と乃木静子夫人を祀る。

創建については、大正2年(1913)、東京市長だった阪谷芳郎が中心となって、乃木希典を敬慕する人々による中央乃木会を設立し、大正8年(1919)、当社の創建を申請・許可され、大正12年(1923)11月1日に鎮座祭が行われた。

設計は大江新太郎が手掛けた。昭和20年(1945)5月の東京大空襲で焼失したが、新太郎の息子・大江宏の設計で昭和37年(1962)に復興した。

昭和58年(1983)には宏の長男・大江新と三男・昭によるコンクリート造の宝物殿が建てられ、焼け残った新太郎設計の手水舎と合わせて親子3代に渡る建築家の作品が一堂に会す。

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境内社・正松神社。本殿右にある。乃木が師事した玉木文之進と、その甥の吉田松陰を祀る。昭和38年(1963)創立。

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境内社・赤坂王子稲荷神社。手水舎の左側にある。乃木夫妻が崇敬していた王子稲荷神社を勧請して昭和37年(1962)に創立した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集 

この日のお参りは乃木神社からの予定だったが、先に明治神宮、東郷神社をお参りしてから、当社にお参りした。この日時間があれば訪れようと考えていた王子稲荷神社が勧請されていた。

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東郷神社

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とうごうじんじゃ。東京都渋谷区神宮前一丁目にある。

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ご祭神は、東郷平八郎命を祀る。

東郷平八郎は弘化4年(1847)12月22日薩摩藩士東郷吉左衛門の四男として鹿児島市加治屋町で誕生した。

幕末に19歳で薩摩藩の海軍に入り明治維新前後の海戦に従事し、明治4年(1871)24歳の時にイギリスに留学してウースター号等で7年間厳しい訓練に耐え、船乗りとしての知識と技術を修め、海軍魂を培って帰国し、日本海軍士官となった。

以来、戦略や国際法の勉強に励み、巡洋艦浪速の艦長としてハワイがアメリカ合衆国に併合された際(1893)や日清戦争中(1894-1895)の難しい国際問題等を処理し東郷の名は世界的に有名になった。

さらに、日露戦争(1904-1905)では、聯合艦隊司令長官として三笠艦上に「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」とのZ旗を掲げ、露国のバルチック艦隊を日本海において撃滅して、世界の海戦史上空前絶後の完全な勝利を成し遂げた。

この大勝は、わが国を国難から救っただけではなく、当時ロシア等大国の植民地政策の圧力下にあった国々に、大きな喜びと希望を与えた。

大正の始めに元帥府に列せられ、大正3年(1914)から7年間東宮御学問所総裁として昭和天皇の御教育の大役を果たした。

明治、大正、昭和の三朝に至誠一貫奉仕、国家の重鎮、まごころの人として、英雄「大東郷」と尊敬されるようになった。

昭和9年(1934)5月30日午前7時、88歳で東京都麹町三番町で薨去した。

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創建の経緯は以下のとおりである。

東郷平八郎が昭和9に亡くなると、全国から海軍省に東郷を顕彰する神社の創建の要望と献金が相次いだ。

当時の海軍大臣大角岑生が財団法人東郷元帥記念会を設立し、寄せられた献金によって神社の創建が計画された。

鎮座地は、明治神宮に近い元鳥取藩主池田侯爵邸が選ばれた。

昭和12年(1937)9月に地鎮祭、昭和15年(1940)5月27日(海軍記念日)に御鎮座祭が行なわれて、欅と檜素木、神明造檜皮葺の東郷神社が完成し、同時に府社に列格した。

昭和20年(1945)には別格官幣社への昇格がほぼ決まりかけていたが、東京大空襲によって社殿が焼失し、昇格は断念された。

戦後になって復興の機運が高まり、昭和33年(1958)に奉賛会が結成され、昭和39年(1964)に社殿が完成した。

境内に付属の東郷幼稚園がある。隣接する東郷記念館は当社ではなく、TBSの関連企業が経営している。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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2016年4月20日 (水)

明治神宮

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めいじじんぐう。東京都渋谷区にある神社。

勅祭社。旧官幣大社。

明治神宮は第二次世界大戦後、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、平成16年(2004)に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。しかし、平成22年(2010)8月23日、再び神社本庁は明治神宮の被包括関係を設定した。

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ご祭神は、明治天皇と昭憲皇太后を祀る。

創建の経緯は以下のとおりである。

明治45年(1912)に明治天皇が崩御すると京都の伏見桃山陵に葬られた。天皇の崩御は立憲君主国家として初の君主の大葬であったが、その死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念)のための行事が計画された。

その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館などさまざまな案があったという)、一方、天皇を崇敬する東京市民からは東京に神宮を建設したいという運動が起こった。

大正3年(1914)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、大正4年(1915)5月1日、官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。

明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。

造営は大正4年(1915)から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した。

鎮座祭は、大正9年(1920)11月2日に行われ、皇室からは大正天皇の名代として皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が行啓した。初代宮司は公爵一条実輝。

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面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。

また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。

22万坪(約73ha)に及ぶ広大な神域は江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640)より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていた。この土地が井伊家から政府に対して献上され、明治7年(1874)に買い上げられて南豊島御料地となった。

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神宮本殿は大東亜戦争末期の昭和20年(1945)4月、アメリカ軍による空襲によって焼失した。その後、全国から復興資金が寄せられ、仮殿が建設されて翌昭和21年(1946)5月に還座祭が行われた。現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもので、還座祭は昭和33年(1958)10月31日に行われた。

境内の旧御苑入口付近にはかつて、代々木の地名の起源ともなったモミの巨木「代々木」があったが、この名木も空襲の折、高射砲によって撃墜されたアメリカ軍機B29の直撃を受けて焼失した。

昭和41年(1966)7月22日に大鳥居が落雷によって破損したため、新たな鳥居を昭和50年(1975)12月23日に建立。2代目の大鳥居も初代同様、台湾の阿里山連峰の大檜が用いられた。なお、落雷した鳥居は氷川神社の二の鳥居として翌年移設された。

明治神宮は、初詣では大晦日から正月三が日の間で300万人前後の参拝者を集めることで知られ、その数は日本一である。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

明治神宮御苑

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明治神宮御苑を散策した。

隔雲亭。

花を見るには季節としては中途半端かもしれないが、ツツジ、ヤマブキが咲いていた。

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南池。

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清正井。

水は飲まないよう注意書きがあった。

パワースポットとして一気に有名になったから、汲んでいく人もいたのだろうな。

 

何度も参拝していて、いつも思うのだが、都内の観光スポットになっているから海外からの旅行者も多く、文化的文脈を共有してないから、神社にはそぐわない喧噪もあるが、つねに静寂を保っている場所なのだった。

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2016年4月18日 (月)

住吉神社(下関市)

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すみよしじんじゃ。山口県下関市一の宮住吉にある。

式内社(名神大社)。長門国一宮。旧官幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

日本三大住吉の一社に数えられる。

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ご祭神は、本殿として連なる第一から第五の5殿のそれぞれに次の神が祀られている。

 第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)

 第二殿:応神天皇

 第三殿:武内宿禰命

 第四殿:神功皇后

 第五殿:建御名方命

大阪の住吉大社が住吉三神の和魂を祀るのに対し、当社は荒魂を祀るとされる。

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創建については、 『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。

延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では長門国豊浦郡に「住吉坐荒御魂神社三座 並名神大」と記載され、三座が名神大社に列している。

創建の由緒から軍事と海上交通の神として厚い崇敬を受け、鎌倉時代に入ると、源頼朝を始め歴代将軍からの社領などの寄進を受けた。戦国時代に一時衰微したが、大内氏、毛利氏からの崇敬を受けて復興し、江戸時代には長州藩主毛利氏によって社殿の修復が行われた。

明治維新後、明治4年(1871)に近代社格制度の国幣小社に列し、明治44年(1911)に官幣中社に昇格した。

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本殿は応安3年(1370)に大内弘世により造営されたもので、昭和28年(1953)国宝に指定された。五つの千鳥破風付き一間社を合の間とともに一列に連ねた九間社流造で、中央の第三殿の前に拝殿がある。

拝殿は毛利元就の寄進により天文8年(1539)造営された切妻造檜皮葺で、昭和29年(1954)重要文化財に指定された。

神階は以下のとおりである。

天安3年(859)1月27日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒魂神」。

貞観17年(875)10月8日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒御影神」。

貞観17年(875)12月5日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒魂神」。

仁和2年(886)11月14日、従四位上から正四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「住吉荒魂神」。

寛平3年(891)8月21日、正四位下から正四位上 (『日本紀略』) - 表記は「住吉荒御魂神」。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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お参りを済ませ、楼門をくぐり石段を降りてくると、何か雰囲気が違うことに気がついた。

真新しい青銅の狛犬があった。前回のお参りの際、こんなものがあったかどうか記憶にないので案内板の説明書きを見ると、昨年8月に復元されたとある。

住吉神社の狛犬は元々青銅製であったが、軍事物資として戦時徴用されたのだという。戦後70年を期し復元されたのだ。金工だとエッジが効いて、ユーモラスな感じが増すようだ。

 

2回目のお参りになる。レンタカーを借りた新下関駅前に近く、車の返却前にお参りし、今回の巡拝を終えることにした。好きな神社のひとつなので、巡拝行の最後にお参りできてよかった。

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御祖神社(足立山妙見宮)

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みおやじんじゃ(あだちやまみょうけんぐう)。福岡県北九州市小倉北区にある。

旧県社。足立山妙見宮の名で親しまれている。全国妙見総本宮を称したことがある。

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ご祭神は造化三神である、

 天之御中主神

 高皇産霊神

を主神として祀る。

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創建は宝亀元年(770)、和気清麻呂によって創始され、清麻呂の4男磐梨妙運によって奉祭された。

御祖神社の歴史は公式ホームページによると以下のとおりである。

称徳天皇の神護景雲3年(769)、太政大臣法王弓削氏道鏡が皇位につくのが相応しいというお告げが出た。それに疑問をもった朝廷が和気清麻呂公(以下、公)に勅命をだし、神のお告げが本当であるかを確かめる為、宇佐神宮へ行くよう命じた。

その結果、「道鏡は、皇位に相応しくない」というお告げが出た事を朝廷に報告すると、それに怒った道鏡は、公を鹿児島に追放しようとした。その途中、豊前のすわえ田村に漂着した公は、道鏡の追っ手から足の筋を切られるが、数百頭の猪が公を助け、再度、宇佐神宮に詣り神告を受けた。

その神告に従い公は、現在の小倉北区湯川にあった霊泉につかると、たちどころに足の傷が治った。

そこで、公は、近くの足立山に登り、造化神北辰尊星妙見に天皇の安泰と反逆者がいなくなることを祈った。 すると、造化の天神が現れ『汝の願い聴きいる』という神託をうけた。

翌770年、光仁天皇が即位し、天皇家は安泰となった。 また、道鏡は下野国に流され、公は平城の京に呼び戻された。 公は四男磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地である足立山に送り、足立山妙見宮を創建した。

772年、国司・大伴百世の助けで、葛原峰が坂の足立に下宮、足立山平癒寺を建立した。

817年、公の三男参議真網卿が、宇佐に勅使として参った帰り、下宮に清麻呂公と祖先の神霊を祀った。

853年、藤原良房(804-872)が、虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進した。その他、大日不休息の仏像二体が、現在隣接する薬師堂にある。

947年、村上天皇の勅願所となった。

1174年から1552年にかけて、古鏡が埋蔵される。

1520年頃、後柏原天皇より「うら菊」の紋章を授かる。この紋章は、全国神社の紋章としては妙見宮だけのものであり、和気氏の流れである和気明親が後柏原天皇(1501-1526)から、和気氏の家紋として頂いたものである。従って、和気氏と同じ流れの妙見宮の杜家が、これを神社の紋章として使用した。

1601年、下宮を現在の場所に移した。細川忠興が眼病平癒を祈願し、この成就により妙見宮下宮を現地に移して鎮祭した。その際、日向から取り寄せた松を植樹した。

1795年、小倉藩の五代藩主・小笠原忠苗が足立山山頂の妙見神社に参拝したおり、家臣がお茶の用意にと同社の後ろを掘ったところ、古鏡が出土した。

出土した古鏡は九面あり、湖州伝々の銘のある古鏡六面、流水飛鳥や梅鳥のある古鏡が三面である。なお、現在古鏡は 市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)に寄託されている。

1827年、妙見宮の桜香神苑に秋山光彪の歌塚が建設され、現存している(北九州市指定文化財)。

1870年頃、神仏分離令によって平癒寺を御祖(みおや)神社と改称する。

1945年、足立山妙見宮を再称し、かつ、全国妙見総本宮と追称し、現在に至る。

※以上、文章は公式ホームページ、Wikipediaより抜粋・編集

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地蔵堂、高倉稲荷社、玉姫稲荷社。

このほかに大学稲荷社が拝殿の右にある。

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薬師堂。

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境内を左側に出て少し進むと上宮への登り口があり、その手前に和気清麻呂公の石像がある。猪に乗っている。

公式ホームページの説明によれば、妙見宮境内に津田三代吉、米谷勘吉両名の敬神的協力によって1929年に建設された「猪に乗る和気清麻呂公の銅像」があったが、1944年の銅鉄回収を受けて除去され、そのままとなっていた。

1953年、米谷勘吉、津田金治、山田一次氏らによって、石像として改造され、現在に至っている。

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和布刈神社

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めかりじんじゃ。福岡県北九州市門司区門司3492(和布刈地区)にある。

別名「速門社(はやとのみや)」、「早鞆明神」。旧県社。

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ご祭神は、主祭神に比賣大神、日子穂々手見命、鵜草葺不合命、豊玉日賣命、安曇磯良神を祀る。

創建は、社伝で伝えられる限りでは、神功皇后の三韓征伐後奉祀されたもので、仲哀天皇9年(200)とされる。

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古くは「隼人明神」とも呼ばれた。

壇ノ浦の戦いの前夜には平家一門が酒宴を開いたと伝えられる。

海峡の守護神として崇敬を集め、建武3年(1336)に足利尊氏、応永年間(1394~1428)に大内義弘、天正3年(1575)に仁保常陸介による諸社殿の修築造営が伝えられている。

現社殿は明和4年(1767)に小倉藩主・小笠原忠総が再建したものである。

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神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる。

和銅3年(710)には神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残っている。

「和布刈神事」は福岡県の無形文化財に指定されている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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甲宗八幡宮

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こうそうはちまんぐう。福岡県北九州市門司区にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社である。

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ご祭神は、第一殿に応神天皇、第二殿に神功皇后、第三殿に宗像三女神(市寸島比売命・多紀理比売命・多紀津比売命)を祀る。

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創建については以下のとおりである。

清和天皇貞観元年(859)、大和国の大安寺の僧侶であった行教が宇佐神宮に参拝し、「桓武天皇は都を平安京に遷させ給うてより、五十年以上も経過したが、未だに王城鎮護の神なし。 願わくば神慮我に降って守護神を教え賜え」と祈願した。

すると、「吾れ都近く移座して国家を鎮護せん」とのご神勅を受けた。これにより、翌年の貞観二年(860)、清和天皇は太宰大弐清原真人岑成を勅使として派遣した。

その勅使の命を受けた行教は、宇佐神宮のご分霊を山城国に遷座する(石清水八幡宮の創建)途中、門司関の霊峰筆立山の山麓に駐留した。

すると、筆立山上空に瑞雲たなびき、不思議にも八流の幡を天降して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らしたという。

行教は大神の出現疑うべからずと上申し、この地に宇佐神宮のご分霊を祀り、神功皇后ご着用の御甲をご神体として当神社を創建した。御甲をご神体として祀ることから甲宗と称する。

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50年に1度の大祭で神体の拝観が行われる。前々回は昭和33年(1958)、前回は2平成20年(2008)に執り行われた。

境内の拝殿右横に壇ノ浦の戦いで入水した平知盛の塚と伝えられる石塔がある。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

※神社公式ホームページの名称が「甲宗八幡宮」となっていたので、このエントリー記事でもそのようにした。

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龍王神社

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りゅうおうじんじゃ。山口県下関市吉見にある。

長門国三宮。

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ご祭神は、

玉依姫命、天津児屋根命、大綿津見神、住吉荒魂大神、息長足姫命、誉田和氣命

を祀る。

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大正6年5月、故(もと)郷社・乳母屋神社に故村社・大綿津見神社を合祀して、龍王神社と改称した。

また、尾崎八幡宮、河内神社、貴船神社、稲荷神社を境内に移転、合祀して境内神社とした。

乳母屋神社は第8代孝元天皇の御代に鎮座し、第27代安閑天皇32年に現在地に社殿を建立した。

第43代元明天皇の御代に社殿を再建され、長門国第三鎮守の社と云われた。

主祭神の玉依姫命は綿津見神の御子神にて姉神の豊玉姫の御子を乳母神として育てた神徳により、乳母屋神社という社名となった。

また、故大綿津見神社は古くから龍王社と称された。

景行天皇20年2月初申、龍王山千母○嶽に鎮座し、海神・大綿津見神を上中下三宮に祀った。

神功皇后の征韓の際、この御山に登って大神に祈り、山内屏風谷の大楠をもって軍船を造り、山の峠を越して船出した。その峠を船越と名付けた。

凱旋の際、皇久保濱(現古宿の浜)に上陸し、船具陣具を置き、兵器は岩窟に納め、綿津見神に謝ったと伝わる。

現在、本社の別宮として山頂に上宮、中腹に中宮の社殿がある。

鎮杞市八大竜大神、海上安全、、雨乞いの神として崇拝された。

※以上、文章は参道案内板より抜粋・編集

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福徳稲荷神社

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ふくとくいなりじんじゃ。山口県下関市豊浦町宇賀犬鳴の稲城山中腹にある。

 

ご祭神は、

 宇迦之御魂大神(谷川稲荷)下社

 大宮能売大神(谷森稲荷)中社

 大市比売大神(谷嶽稲荷)奥社

を祀る。

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創建年代は不詳。往時は谷嶽、谷森、谷川稲荷の呼称で祀り、社を造営していたという。

昭和46年(1971)に三所の稲荷神社を合祀する社殿を新たに造営し、谷川稲荷の碑に刻まれた「福徳」を神号として、福徳稲荷神社と称えて現在に至っている。

※以上、文章はリーフレット記載の内容を抜粋・編集

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立派な社殿の右奥に千本鳥居が続いていて、三つの稲荷社がある。

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少し下り傾斜の参道をずっと歩いていくと、車から見えた稲荷社に着いた。結構、長くて汗をかいた。

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元々、下関の中心部に向かって海岸通りを走っていたら、福徳稲荷神社の大きな鳥居が見えた。

どうも観光施設のように見えたので通り過ぎたが、ふと上を見るとこの小さな社が見えたので、写真のT字路でくるっと引き返して、お参りしてみた。海岸通りはなかなかUターンできないのだ。

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平日で観光客の姿は少なかったが、駐車場が広く、眺望も素晴らしく、まさに観光対応ができた神社だった。

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元乃隅稲成神社

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もとのすみいなりじんじゃ。山口県長門市にある。

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言い伝えによれば、昭和30年(1955)のある夜に、地元の網元の枕元に白狐が現れ、「これまで漁をしてこられたのは誰のおかげか。」と過去からの関わりを詳細に述べた後、「吾をこの地に鎮祭せよ。」というお告げがあったことにより、太鼓谷稲成神社から勧請を受け、分霊された。

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昭和62年(1987)から10年かけて奉納された123基の鳥居が、龍宮から100メートル以上に渡り並んでいる。

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最近では、アメリカのニュース専門放送局・CNNが発表した「Japan’s 31 most beautiful places “日本の最も美しい場所31選” 」の中にランクインしたことから、再び注目が集まるようになった。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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正月頃にTVで紹介されていたので、どんな処か行ってみた。「龍宮の潮吹き」(天然記念物)という景勝地にある。神社というよりも観光的要素の強い施設だった。

裏参道の鳥居(駐車場からはこちらが正面になる)では、観光客がTVでも紹介された鳥居の上の賽銭箱へ賽銭を投げ入れる行為に興じていた。

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事務所みたいな小屋に書き置きのご朱印の紙が置かれていて、初穂料は「お気持ち」ということで、自由に取っていけるようになっていた。

このご朱印が何やらパソコンで自作したような感じで、狐のイラストの部分は4色のパターンが用意されており、近年のご朱印ブームをよく研究されているようだった。

しかし、熱心な参拝者はこの手のものは評価しないような気がする。自分もさすがにほかの神社のご朱印と一緒にすることには抵抗がある。サンプルとして持ち帰ったものの取扱いに困ってしまった。

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2016年4月17日 (日)

沼名前神社(鞆祇園宮)

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ぬなくまじんじゃ。広島県福山市鞆町後地にある。

式内社。旧国幣小社。現在は神社本庁の別表神社。

「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」の別称とともに、「祇園さん」の通称がある。

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ご祭神は次の2柱。

主祭神 大綿津見命(おおわたつみのみこと) - 旧渡守神社祭神

相殿神 須佐之男命(すさのおのみこと) - 旧鞆祇園宮祭神

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現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。

神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。

現在の祭神2柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。

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渡守神社

渡守社 本殿奉斎後の旧社。 社伝では渡守神社(現・沼名前神社)の創建に関して、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるという。

そして帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。鞆は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったともいう。

平安時代中期の『延喜式』神名帳では備後国沼隈郡に「沼名前神社」として式内社の記載がある。同帳では読みは「ヌナサキ」「ヌナクマ」の2説がある。その後、この式内社は所在不明となっていた。

近世以後の考証で現在は渡守神社に比定されているが、鞆にあるのか自体も明らかとなってはいない。 近世には、渡守神社は猿田彦神・船魂命(船玉命)を祭神としていたという。

元は後地平村もしくは鞆の関町にあったともいわれ、慶長年間(1596-1615)に祇園社の境内社として現在地に遷座したと伝えられる。明暦年間(1655-1658)には、藩主水野勝貞によって社殿が再建された。

 

鞆祇園宮

神社側は、鞆祇園宮の創建については不詳であるとしている。天長年間(824-834)の創建とも、保元年間(1156-1159)の勧請によるとも伝えられる。 祭神は、現在同様素盞鳴命(須佐之男命)であった。

元は鞆の関町に鎮座していたが、慶長4年(1599)の火災で焼失し、現在地に遷座したという。

この鞆祇園宮を『備後国風土記』逸文に見える「疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)」にあてる説もある。

当社は鞆の産土神として崇敬され、福山藩主からも多くの寄進を受け、社地も有していた。

 

江戸時代、当地には鞆祇園宮が鎮座、その境内社に渡守神社があった。

明治元年(1868)、鞆祇園宮は「素盞鳴神社」と改称。

明治4年(1871)、この素盞鳴神社をもって式内社とし、「沼名前神社」と改称、近代社格制度において国幣小社に列格。

明治8年(1875)5月、渡守神社をもって式内社とすると改める。

明治9年(1876)7月、渡守神社の神霊を本殿に奉斎、祇園神は相殿に改める(主従逆転)。渡守社祭神の船玉命は、大綿津見命と改められた。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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本殿の右側に境内摂末社があった。

左から、八幡社。

その右の小さな3つの社は、竈社・塞社、松尾社・稲荷社・地主社、厳島社・昆社。

その右に渡守社。いちばん奥が護国神社。

 

鞆の浦の町の奥にあり、車で住宅街の細い道を進むと、鳥居の前まで来ても参拝客用の駐車場が見当たらず、海岸の駐車場まで引き返して停めた。

鞆の浦は東側が海に面しているので、山側の神社を仰ぐと時間的に逆光気味になり、写真が撮りにくかった。

境内に森下仁丹の創始者・森下博銅氏の像があったようだが、広島に戻ってレンタカーを返す時間が気になり、見逃してしまったのは残念だ。

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福山八幡宮

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ふくやまはちまんぐう。広島県福山市北吉津町にある。

福山城の北側にある松廼尾山に祀られている。

福山八幡宮は2つの社で構成されている。多くの場合、神社を並列して祀る場合、どちらかの本殿へ合祀することが一般的であるが、本宮は本殿、拝殿、随身門、石段、両部鳥居、参道、総門等それぞれが同一規模、同一形式で東西に並べて建てられており、全国に類例の少ない形式である。

かつては、東御宮は延広(のぶひろ)八幡宮、西御宮は野上(のがみ)八幡宮と呼ばれ別法人として祀られていた。

1969年に両者の法人格を合併し「福山八幡宮」となった。備後福山の総鎮守とされ、境内には結婚式などを行う福山八幡宮会館のほか水野勝成を祀る聡敏神社や稲荷神社など多くの社も祭られている。

本宮は25年を式年としており、平成21年(2009)3月3日に、御鎮座三百二十五年奉祝大祭を行った。

ご祭神は、

応神天皇 誉田別命 (ほんだわけのみこと) ― 人皇第15代

神功皇后 息長帯比賣命 (おきながたらしひめのみこと)  ― 応神天皇御母君

比売大神  紀理姫命・多岐都姫命・市杵島姫命 (たぎりひめのみこと・たぎつめひめのみこと・いちきしまひめのみこと)

 

創建は、伝承によれば福山八幡宮の前身となる延広八幡宮と野上八幡宮は古代から深津郡に奉祀されていたとされているが、両神社が文献に現れるのは江戸時代になってからで、それ以前の正確な様子はわかっていない。

福山藩初代藩主水野勝成による福山城築城と城下町の整備に伴い城下に祀られるようになり、2代藩主水野勝俊の時代に城下南側の西と東に置かれる形ができあがった。

延広八幡宮

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かつては惣堂八幡宮と呼ばれ福山城建設地である常興寺山の麓にあったが、福山城築城のとき職人たちにより城下の南の神島町下市(現在の延広町)に祀られたとされる。

寛永18年(1641)に神島町が火事で焼けたため、神島町と共に城下南東(現在の住吉町)に移されたといわれる。なお、現在の天満屋南側の通りが(神社が存在しないにもかかわらず)「宮通り」と呼ばれるのは、この名残といわれる。

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寛文2年(1662)、3代藩主水野勝貞の死去により発生したお家騒動のため、惣堂は騒動につながるとして「延広八幡宮」と改称された。この騒動は旧勝貞側近と門閥派との対立により起きたもので「水野家家中騒動」といわれ勝貞の元側近5名が殉死を強いられることになった。

4代藩主・水野勝種が天和3年(1683)に城下南西の野上八幡宮と共に吉津川北岸に移転させ「東の宮」と一般に呼ばれるようになった。

野上八幡宮

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野上八幡宮は天文年中(1532-55)に備後地方の有力豪族である杉原盛重により常興寺山(現在の福山城)に造営されたとされる。

福山城築城に際して城下の南西である野上(現在の野上町)に移され「野上」の名称の由来となったといわれる。なお、遷座される以前の名称は分かっていないが、常興寺山に祀られる以前は野上町にあったとの伝承もあり、元々野上の名称であったともいわれるが(つまり野上→常興寺山→野上と移転したことになる)、若宮八幡宮の別名もあることから、これが旧称であった可能性も考えられる。

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何れにしろ、確たる由来は不明である。以後、水野家の庇護を受け藩士たちの氏神として崇められていたが、4代藩主・水野勝種が天和3年(1683)に城下南東の延広八幡宮と共に吉津川北岸に移転され「西の宮」と一般に呼ばれるようになった。

両社八幡宮

4代藩主・水野勝種は天和3年(1683)に城下南東の延広八幡宮と城下南西の野上八幡宮を筆頭家老上田玄蕃下屋敷であった吉津川北岸の松廼尾山に移転させた。

本宮は福山城天守を南に望む小山の山頂に同じ形式・規模で並べて建てられ、隣接した位置に設置されたが両社の間は福山藩初代藩主である水野勝成を祀る聡敏神社が鎮座し、参道も東西それぞれに専用のものが設けられた。

このように藩士と町人の氏神が対等に並べられたことは、水野家の統治政策を象徴している。以後、2つの神社は両社八幡宮と呼ばれることになった。

福山八幡宮

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昭和44年(1969)に両者の法人格は合併され神社本庁所属の別表神社となり社名は「福山八幡宮」と改められた。

両社の本殿は共に建造当時のまま今日まで残されているが、間を隔てる聡敏神社は昭和59年(1984)の中央拝殿建設により西御宮裏(北西部)に移され、本殿の周囲も舞台の新設を始めとする大規模な整備が行われ創建時から大きく姿を変えた。

この中央拝殿は御鎮座300年の式年記念事業により建てられたもので、両社の中間に位置し、東西の本殿を同時に参拝できるようになっている。

なお、中央拝殿正面の舞台は巨大な貯水タンクになっており、初期消火に必要な水量(最大水量にて30分連続放水可能)を常に蓄えている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

 

隣接して昆(うしとら)神社があるのだが、時間の関係でお参りしなかった。当社ももう少し時間をかけてお参りしたほうがよかった。福山は再び訪れたいところだ。

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亀山神社(呉市清水)

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かめやまじんじゃ。広島県呉市清水にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

旧呉市内の総氏神として信仰される。

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ご祭神は、 八幡神として品陀和気命(応神天皇)・帯中日子命(仲哀天皇)・息長帯日売命(神功皇后)を祀る。

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豊前国宇佐に鎮座していた八幡神が、豊後国姫島、安芸国栃原を経て大宝3年(703)8月15日に宮原村亀山(入船山)に遷座したのに始まると伝える。

当社は皇城宮・大屋比売神社・大帯比売神社・比売志麻神社・鈴音宮などと呼ばれたが、一般には「八幡様」と呼ばれていた。

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明治19年(1886)、亀山に呉鎮守府を開設するのに伴い現在地に遷座した。

昭和16年(1941)に県社に列格した。昭和32年(1957)に別表神社に加列された。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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多家神社

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たけじんじゃ。広島県安芸郡府中町にある。

式内社(名神大社)後継社。安芸国総社後継社。旧県社。

別名として埃宮(えのみや)。

社名の「多家」を現在は「たけ」と訓ませているが、本来は「おおいえ」と訓んでいたとも考えられ、またかつては「たが」などとも訓んでいた。

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ご祭神は、主祭神に神武天皇、安芸津彦命(安芸国の開祖神とされる)を祀り、相殿神に、神功皇后、応神天皇、大己貴命を祀る。

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創建については、明治6年(1873)に式内名神大社「安芸国安芸郡 多家神社」の後継神社として創祀された。

社伝では、式内多家神社は神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮(『古事記』)あるいは埃宮(『日本書紀』)の跡に創祀されたものとしている。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。

中世には武士の抗争により社勢が衰退し、所在がわからなくなった。

江戸時代になると、境内社に「たけい社」のあった「松崎八幡宮」(南氏子)と、安芸国総社である「総社」(北氏子)が式内多家神社の後裔社を主張し、論争となった。

結局、明治6年両社を廃止し、現在地の「誰曽廼森(たれそのもり)」に社殿を造営して、両社で祀られていた神を祀る「多家神社」が新たに創建された。

この際、両社に伝わる古記は、後の争いを避けるために全て焼却されたという。

翌明治7年に県社に列格した。

大正4年(1915)に社殿を焼失したが、大正11年(1922)再建した。

式内多家神社の神階の変遷は以下のとおりである。

貞観元年(859)正月27日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)

貞観元年(859)4月27日、従四位下 (『日本三代実録』)

表記は双方とも「多家神」。

現鎮座地の「誰曽廼森」という名前は、神武天皇の滞在時に「曽は誰そ」と訊ねたことによるものである。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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境内に宝蔵がある。明治7年創建の際、広島城三の丸稲荷社の社殿の一棟を移築したものである。

校倉(あぜくら)造りで、太い校木を四方に組み上げて壁とし、柱を用いずに桧皮葺の屋根を支えている。通気性がよいので宝物の保存の適しているそうだ。

この校倉は校木が六角形で現存する校倉では他に例がない珍しいものだという。

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饒津神社

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にぎつじんじゃ。広島県広島市東区にある。

江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

旧県社。

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ご祭神は、主祭神に浅野長政、幸長、長晟を祀り、相殿神として長政室の末津姫(やや)を祀る。

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地元では「にぎつさん」と呼ばれている。

宝永3年(1706)広島藩主浅野綱長により、広島城鬼門の方角に浅野長政の位牌堂を建立したのが始まりである。

文化7年(1810)浅野重晟・斉賢父子が、新たな位牌堂を建立した。

天保6年(1835)浅野斉粛が祖先追悼の為現在地に社殿を建立し、二葉御社と称した。

明治6年(1873)饒津神社と改称した。

その後、境内の東から東照宮参道に至る区域が「饒津公園」として整備された(現在の鶴羽根神社境内を含む)。

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昭和20年(1945)、広島原爆の爆風により本殿や唐門が瞬く間に破壊され、直後に本殿より出火、他の建物も類焼した。この時、石灯籠、手水桶などの石造物が残るだけ、樹木は10数本の松の木を残すのみという甚大な被害を受けた。

また、境内の楠の大樹は、トンネルのようになって県道に覆いかぶさった状態になった。また原爆で傷つき市中心部から逃れてきた多数の被爆者の避難所となったが、人々の多くはこの境内で落命した。

被爆後、京橋川を渡ってこの神社近くに避難し野宿した原民喜は、戦後発表した小説「夏の花」において、被爆当日の夜の状況を描写している。

戦後、仮殿、本殿が再建された。昭和59年(1984)6月、本殿、拝殿、瑞垣が戦前の姿に復元された。

平成12年(2000)唐門も再建され(全国2位の大きさ)、平成17年(2005)唐門の前に木製の鳥居が再建された。

境内に稲荷神社(祭神:宇迦之御魂命)を末社として祀っている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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比治山神社

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ひじやまじんじゃ。広島県広島市南区にある。

旧村社。現在は神社本庁の別表神社。

ご祭神は、大国主神、少名毘古神、市寸島比売神、須佐之男神、車折(くるまざき)大明神を祀る。

摂末社の稲荷神社には、宇迦之御魂大神を祀る。

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創建については、元々は比治山の南の「黄幡谷」と呼ばれる谷に鎮座し、黄幡大明神(おおばんだいみょうじん)・黄幡谷と称していた。

正保3年(1646)3月に真言宗勝楽寺の境内に遷座し、その鎮守社とされた。寛文年間(1661-1673)に現在地に遷座し、藩政時代には近隣の稲荷町三組、東柳町、下段原村、竹屋町南裏、平塚・竹屋村などの産土神として祀られ、当時の藩府より、毎年正月門松添木、九月祭礼湯立の薪木を寄付されるなど崇敬を受けてきた。

明治の神仏分離の際に勝楽寺と分けられ、鎮座地名から比治山神社に改称し、明治4年拝殿を再建、明治5年、村社に列格した。

昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾の投下により本殿・拝殿を焼失したが、昭和22年に社殿を建立、昭和29年(1954)年に現在地の鎮座三百年記念として本殿・拝殿を本建築にて建立した。

昭和34年(1959)、神社本庁の別表神社に加列された。

平成19年に鎮座三百五十年を迎え、新社務所・境内整備を行った。

※以上、文章は当社の由緒書き、Wikipediaより抜粋・編集

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速谷神社

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はやたにじんじゃ。広島県廿日市市にある。

式内社(名神大社)。安芸国二宮。旧国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

山陽道鎮護。安芸国総鎮守。

厳島神社、多家神社とともに「安芸国の三大神社」の一社。

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ご祭神は、飽速玉男命 (あきはやたまおのみこと)を祀る。

天孫降臨に附随した32柱の神のうち天湯津彦命の、五世の孫とされる。『国造本紀』に阿岐国造として記載される。

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創建年代は不詳。千七百有余年の古社である。

嵯峨天皇の弘仁2年(811)、名神に列し、清和天皇の貞観元年(859)、従五位上であった神階を従四位下に進め、同9年(867)には従四位上に進める。

醍醐天皇の延喜5年(905)の『延喜式神名帳』には「安芸国佐伯郡 速谷神社 名神大 月次 新嘗」として記載されて名神大社に列し、国家鎮護の神社として毎年月次祭、祈年祭、新嘗祭の三祭に神祇官の奉幣に預かった。朝廷から篤く崇敬された。延喜式所載の安芸国三社(速谷神社、厳島神社、多家神社)の中では、当社だけがこの殊遇をうけ、安芸・備後国はもとより、山陽道でも最高の社格を誇った。

朱雀天皇の承平5年(935)、藤原純友の乱に、朝廷は騒乱の平定を速谷神社など全国十三社に祈願され、まもなくその乱が鎮定したので、神階を正四位下に進められた。

古くは安芸国の一宮であったとされるが、厳島神社が平氏に崇敬されるにつれて当社は厳島神社の摂社に数えられ、安芸国二宮と称されるようになった。

室町時代からは安芸国桜尾城主だった藤原親実以下歴代の城主、戦国大名の大内義隆、毛利元就、さらに広島藩主、浅野光晟以下の歴代藩主らが速谷神社を篤く崇敬して、神宝・社領を寄進し、社殿の造営と修復を行った。

大正13年(1924)近代社格制度において国幣中社に列格。

昭和21年(1946)官制廃止により、神社本庁の別表神社となった。

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神階は以下のとおりである。

弘仁2年(811)7月17日、名神 (『日本後紀』) 

貞観元年(859)正月27日、従五位上から従四位下 (『日本三代実録』)

貞観9年(867)10月13日、従四位上 (『日本三代実録』)

表記はすべて「速谷神」。

 

このように、速谷神社は1700年あまりの歴史を持ち、かつては厳島神社よりも格の高い神社であった。

交通安全祈願の神社として全国的に知られ、「車を買ったら速谷さん」と遠方からの参詣者も多い。広島電鉄のバスや電車が御祓いを受けることでも有名。

山陽道を往来する旅人が長旅の平安を祈願した由来が数多く残っており、今日も山陽道を守る「交通安全の守護神」として尊ばれている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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拝殿右側に笑う狛犬がある。

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2016年4月16日 (土)

琴崎八幡宮

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ことざきはちまんぐう。山口県宇部市にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

宇部市の総鎮守として崇敬を受ける。

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ご祭神は、

主祭神に、八幡神(品陀和気命・気長足比女命・足仲津比古命)を祀り、

宗像三女神(多紀理比女命・多紀津比女命・市杵島比女命)を配祀する。

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創建は、社伝によれば、貞観元年(859)、僧の行教が御舟で宇佐八幡宮より御分霊を京都石清水八幡宮に御勧請の際、海上の時化のため、宇部郷琴芝の浦に寄航し、御分霊をこの地に留めたところ、里人が御神徳を景仰し琴芝村八王子に祠を建立したことが起源である。

霜降城城主厚東氏からも城南の鎮守として代々尊崇した。

しかし、社地が海岸であった為、祠は長い年月を経て波や風雨にさらされ、やがて廃壊した。

寿永三年(1184)厚東氏七代目の武光が長門国守護職に任ぜられると、その地を訪れ、新たに社殿を建立するよう命じ、社地は西の宮に遷され社殿を造営し、祭事を奉仕し代々崇敬した。

のち、大内弘世が長門国守護職となり、永和三年(1377)、僧の性禅と祀職の豊住がご神託を受けて西の宮から琴崎の地に奉遷された。これが現在の社地になる。

藩主・毛利氏の崇敬は篤く、永禄九年(1566)、社殿造営にあたり毛利元就は竺雲禅師を参拝させ寄進されました。

領主福原氏は代々崇敬篤く、社領を献じ、元禄十年(1697)には、福原広頼が社殿を改造し奉られた。福原越後公は、常に当社に参籠し国事の遂行を祈請されたと記録に残る。

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明治6年に郷社に列し、昭和10年10月には、伊勢神宮の御用材を使用し壮麗なる現社殿を新築、境内外も整備拡張されました。昭和13年県社に列した。

昭和41年7月に神社本庁の別表神社に昇格加列した。

※以上、文章は公式ホームページ、Wikipediaより抜粋・編集

境内末社は以下のとおり。 

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社殿の右側に琴崎稲荷神社がある。

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境内の参道の右側に宇部宮地嶽神社がある。

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同じく参道の右側に琴崎薬(やく)神社がある。

このほかに、いぼ神社がある。

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山口大神宮

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やまぐちだいじんぐう。山口県山口市にある。

旧県社。

昭和22年(1947)まで高嶺神社と称していた。

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伊勢神宮と同様の内宮・外宮があり、それぞれに附属した別宮・摂社がある。

これらの社殿は隣接して建っており、石段を降りた所に祈祷などが行われる神楽殿がある。

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外宮

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内宮

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神楽殿

 

ご祭神は以下のとおりである。

内宮 主祭神 天照大御神、配祀 天手力男命・萬幡豊秋津姫命

内宮別宮・荒祭宮 祭神 天照大御神荒魂・瀬織津姫命

内宮摂社・恵美須社 祭神 事代主命

外宮 主祭神 豊受大御神、

   配祀 天津彦彦火瓊々芸命・天児屋根命・天太玉命・建御名方神・八坂刀自命

内宮別宮・多賀宮 祭神 豊受大御神荒魂・伊吹戸主神

創建については以下のとおりである。 

永正17年(1520)、大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建した。

永正5年(1508)6月、大内義興は山口に逃げてきた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、以降11年間京都に滞在し、管領代として幕政を執行した。その間の永正11年(1514)、義興は伊勢神宮に参拝し、伊勢神宮を山口に勧請したいと思ったという。

義興は、永正15年8月に京都を発って山口に帰ったが、帰国してすぐに伊勢神宮を勧請するための準備を始めた。

伊勢神宮を勧請するための土地を探して、現在地の高嶺東麓を社地に定め、すぐに社殿建立を開始した。

永正17年4月に社殿が落成し、天皇に伊勢神宮勧請の許可を求め、同年6月29日、後柏原天皇の勅許を得て伊勢神宮の神霊を勧請、鎮座した。

当初は高嶺神明と称していたが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の勅額が授けられ、高嶺太神宮、今伊勢と呼ばれるようになった。

江戸時代まで、伊勢神宮より勅許を得て神霊の勧請を受けたのは、日本中で当社だけであった。

(江戸期に入ると伊勢商人の手によって相模国に勧請され伊勢原大神宮が創建され、式年遷宮もとり行われた。新編相模国風土記稿によると伊勢原村に「當村開墾の頃勧請せし所にて、伊勢の神廟に擬し、二十一年目毎に社頭修理を加へ、遷宮の式あり」と記載されている。)

江戸時代に伊勢信仰が盛んになると、山口大神宮には特に西日本各地から多くの参拝者が訪れるようになった。

今も参道脇には多くの「日参一万日成就」の石碑が残る。

昭和3年、県社に列せられ、社名を高嶺神社とした。昭和22年に現在の山口大神宮に改称した。

当初は、伊勢神宮と同様の20年に一度の式年遷宮が行われていたが、戦乱などにより延期されたり、簡単な改修のみで済ませたりということも行われるようになった。

明治以降は明治12年、明治35年に行われたが、その後一時中断した。

昭和35年に社殿建替が行われ、平成12年(2000年)に式年遷宮が行われた。内宮・外宮の敷地の横には式年遷宮の際の古殿地がある。

境内には摂社 多賀神社、末社 高嶺稲荷神社があり、鴻ノ峰中腹に岩戸社がある。鴻ノ峰登山口は外宮の前にあり、岩戸社までは徒歩約10分である。

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多賀神社 

主祭神に、伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀り、天照大御神・素戔嗚命・少名彦名神・火具土神・国常立命・応神天皇・菅原道真命・大内教弘命を配祀している。

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高嶺稲荷神社

なお、岩戸社のご祭神は天照大御神、天手力男命である。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

 

気になったので、赤田神社(周防国四宮)、朝田神社(同五宮)へのお参りに代えて、当社をお参りした。

外宮、内宮の社殿を含めた構成の仕方が清々しかった。

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野田神社

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のだじんじゃ。山口県山口市にある。隣接地に豊榮神社、山口県神社庁がある。

旧別格官幣社。現在は神社本庁の別表神社。

江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

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ご祭神は、長州藩最後の藩主で明治維新の功労者である毛利敬親を「毛利敬親公」として祀り、敬親の養嗣子の元徳を「毛利元徳公」として配祀する。

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明治6年(1873)、有志が謀って「敬親公」を祀る社を豊榮神社の境内に建て、神社名を敬親の諡号である「忠正」から取って忠正神社と称したのに創まる。

翌7年、鎮座地名からとった現在の野田神社に改称して、同9年に県社に列格、

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同19年に現在地に遷座し、大正4年(1915)に別格官幣社に列格した。

元徳は死の2年後の明治31年(1898)、野田神社境内に摂社として芳宜園神社を創祀して毛利元徳公として祀られたが、昭和11年(1936)に本殿に合祀された。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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豊榮神社

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とよさかじんじゃ。山口県山口市にある。隣接地に野田神社、山口県神社庁がある。

旧別格官幣社。現在は神社本庁の別表神社。

江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

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ご祭神は、戦国時代に中国地方に覇を唱え、のちの長州藩毛利家の礎を築いた毛利元就を「毛利元就公」として祀る。

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慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの敗戦により、同年安芸国から長門国に移封された毛利輝元が、萩江向村の春日神社境内に祖父元就の霊(元就公)を祀ったのが前身で、同12年には春日神社は萩城の三の丸に遷座された。

宝暦12年(1762)、長州藩主重就が萩城二の丸に鎮座していた土地神社を改造して春日神社から元就公を遷座し、毛利家の祖神とされる天穂日命と合祀して神性霊社と号したのが直接的な創祀である。

明和7年(1770)には元就公を仰徳大明神と称して改めて主祭神とし、神社名も仰徳社と称した。

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明治2年(1869)、元就には正親町天皇の即位を援助するなど朝廷を崇敬する事跡があったことから、明治天皇は弁事五辻安仲を宣命使として差遣して祭神(元就公)に「豊栄」の神号を与え、山口市の多賀神社境内に仮殿を構えて仰徳社を移祠し豊榮神社と改称した。

同4年、岩倉具視が勅使として差遣されて剣1口を奉納し、同年現在地に現社殿が造営されて遷座。

同6年に県社に列した後、同15年(1882)には別格官幣社に列格した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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今八幡宮

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いまはちまんぐう。山口県山口市八幡馬場にある。

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ご祭神は、

 応神天皇 (第15代天皇)

 仲哀天皇 (第14代天皇・応神天皇の父)

 神功皇后 (仲哀天皇の皇后・応神天皇の母)

 玉依姫命 (初代神武天皇の母)

 宇治皇子 (応神天皇の皇子・仁徳天皇の弟)

を祀る。

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創建や歴史については以下のとおり。

室町時代に記された『二十二社註式』によれば、初め宇治皇子一座を祀り今八幡宮と称し、守護大名大内氏の山口入府以前から存した。この社の創建年代は不明であるが、鎌倉時代の弘安年間、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前の古社であることが判る。  

文明3年(1471)大内政弘が山口の鎮守と定めて市内の朝倉八幡宮を遷して合祀し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、他に三座が加列される。

その後、文亀3年(1503)大内義興が社殿を造替、明との交易で得た莫大な財力を象徴する荘厳なもので、現在国の重要文化財に指定されている。 

当宮は大内氏の居館(大内館)北東の鬼門除けにあたる守護であり産土神であることから、山口町の総氏神として「山口総鎮守」の尊称を賜り、歴代当主の崇敬は極めて篤い。

『大内氏壁書』の文明10年(1478)条に大内政弘より布達された「今八幡宮条々」において当時の広大な神域を維持・保護するため種々の触書が出されたほか、常に当主の参拝や寄進が行われた。

大内義隆はその財力を誇示する巨大な鰐口を寄進しているほか、神道に強い感心を寄せて都から吉田兼右を招聘し、宮司共々神道伝授を受けている。さらに貴族風な義隆は網代車で社参するなど、その権勢は山口を中心に最高潮に達した。

大内氏滅亡後も、引き続き毛利氏により当宮は篤く保護され、神領が寄進されたほか、修繕の際の費用は藩より支弁されている。また一門の病気平癒祈願が行わるなど、当宮に対する尊崇が判る。 

幕末には、七卿を財政面で支援したほか、社務所において堀真五郎、久坂玄瑞らが密談を重ね、堀を総督とする諸隊のひとつ八幡隊が結成。屯所になり、四境戦争などに大いに活躍した。

明治6年に郷社に列し、大正3年に解体修理を施す。

昭和29年、平成3年に屋根の葺き替えを行う。  

古くから山口地方において両社といえば当宮と仁壁神社を指し、例祭には毛利家から当主の代参がこの二社にかぎり差遣された。

また正月の三社詣りはこれに八坂神社を加えたものとして、江戸期より今なお地元市民の習俗に生きている。

※以上、文章は公式ホームページより抜粋・編集

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古熊神社

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ふるくまじんじゃ。山口県山口市にある。

「山口の天神様」と通称される。

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ご祭神は、菅原道真を主祭神とし、道真の子の菅原福部童子を配祀する。

福部童子は11歳のときに、左遷された父を慕って太宰府へ向ったが、山口で夏病みにかかり亡くなった。

福部童子は今市の甘露院に葬られ、当社創建後は当社にも祀られた。福部童子が亡くなった8月25日には福部祭が行われる。

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創建は、応安6年(1373)10月、大内弘世が北野天満宮より勧請を受けて創建した。

当初は山口・北野小路に鎮座していたが、後に数度の遷座を経て長者山の麓の御石の森に鎮座した。

元和4年(1618)、毛利秀就が現在地に社殿を移した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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仁壁神社

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にかべじんじゃ。山口県山口市にある。

式内社。周防国三宮。旧県社。

周辺の地名も「三の宮」となっている。

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ご祭神は 住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)を主祭神とし、下照姫命・味耜高彦根命を相殿に祀る。

『仁壁神社鎮座考』では味鋤高彦根命が主神、下照姫命が相殿神で、住吉三神は合祀されたものと記されている。

他に、下照姫命が主神で、他の四柱が合祀されたものという説もある。

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創建は不詳である。崇神天皇7年、各地の神社の神封戸を定めたときに、当社にも宮野庄を神封戸としてあてたとの記録があり、このときにはすでにあったということになる。

国史の初見は、『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(851)正月27日条の、従五位の神階を授けるという記述である。その後も昇格し、建久6年(1195)に正三位まで昇った。延喜式神名帳では周防国吉敷郡で唯一記載されている。

元は宮野下村に鎮座していたが、現在地で一日中玉光が飛ぶ奇瑞があったとして、長治元年(1104)に現在地に遷座したという。

明応6年(1494)、九州の戦陣から帰った領主・大内義興が当社を含め周防国内の5社に戦勝報告をし、当社は3番目であったことから以降「周防国三の宮」と称されるようになった。

享保5年(1720)に建てられた社殿が長く存在していたが、平成9年(1997)に火災(放火)により焼失。

平成12年(2000)に本殿・拝殿・幣殿が再建された。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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出雲神社(山口市)

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いずもじんじゃ。山口県山口市徳地堀にある。

周防国二宮。式内社。旧県社。

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ご祭神は大己貴命、事代主命を祀る。

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創建は、太古出雲種族の左波川流域への膨張発展に伴い、その祖神を鎮祭したものと考えられている。

元生天皇の霊亀元年(715)に鎮座と伝えられる。聖武天皇の天平9年(737)に周防国二宮として勅許を受けた。

奈良時代の周防国正税帳にも、神戸・神田の奉納の記述が残されている。

平安時代初期の延喜式内帳(927)に周防国出雲神社二座として式内社に勅撰された。

以降、式内社として、摂政藤原氏とはじめ、大内氏、毛利氏等歴代領主・藩主の祈願所として、厚い崇敬を受け、徳地地方の総氏神として営繕護持された。

現在の社殿は寛延3年(1750)に藩主・毛利宗廣公により重建された。

明治33年、県社に列格した。

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境内末社に宇佐八幡宮と若宮八幡宮がある。

※以上、文章は鳥居横の案内板の記載内容を抜粋・編集

 

山口市中心部から少し離れた地域にある。参拝した日は春祭の日であったが、すでに人影はなかった。

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太鼓谷稲成神社

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たいこだにいなりじんじゃ。島根県津和野市にある。

旧社格は郷社。

通称「津和野おいなりさん」。全国で唯一「いなり」を「稲成」と表記するとされる。

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ご祭神は、宇迦之御魂神(稲荷神)と伊弉冉尊を祀る。

創建は、安永2年(1773)、津和野藩の七代藩主である亀井矩貞が、藩の領民安寧のために京都の伏見稲荷大社から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したことに始まる。

以降、歴代藩主の崇敬を受け、廃藩後は庶民も参拝できるようになり、中国地方有数の稲荷神社となった。

現在は「日本五大稲荷」を称している(他の4社は伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社)。

昭和10年(1935)に郷社に列格した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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元宮

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元宮の裏側にまわると命婦社がある。

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このように峰の中腹にある。

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境内から津和野の町が一望できる。手前は津和野高校のグランド。

左側の山のなかにくぐってきた大鳥居があるが、この写真では小さくて見えない。

 

「稲荷」を「稲成」と表記しているのは、言い伝えがあるとのこと。

稲成の言い伝え(公式ホームページ)

 

かねてより是非お参りしたいと考えていたが、この度の熊本地震で計画を変更し、山口市内に逗留したことで、参拝の機会ができた。本来なら表参道から千本鳥居をくぐってお参りするところ、迂闊にも神社の駐車場まで車で上がってしまった。

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2016年4月15日 (金)

佐嘉神社

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さがじんじゃ。佐賀県佐賀市松原にある。

旧別格官幣社。現在は神社本庁の別表神社。

江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつである。

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ご祭神は、佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀る。

直正は藩政改革を行い、大隈重信・江藤新平らの人材を育成した。

直大は戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年には藩籍奉還を申し出た。

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創建は、直正の歿後の明治6年(1873)、直正の威徳を賛え、鍋島家の祖先を祀る松原神社に南殿を造営し、直正を祀ったことに始まる。昭和4年(1929年)、直正を祀る別格官幣社・佐嘉神社の創建が決定した。

昭和8年(1933)に現在地に社殿を造営し、松原神社の直正の霊を遷座した。

昭和23年(1948)、松原神社南殿に祀られていた直大の霊を佐嘉神社に合祀した。松原神社は別の神社として運営されていたが、昭和36年に佐嘉神社と運営を一本化した。

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松原神社

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松根神社。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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輿賀神社

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よかじんじゃ。佐賀県佐賀市与賀にある。

旧県社。

ご祭紳は、主祭神に与止日女神(よどひめのかみ)を祀る。豊玉姫命であり、海の神、神武天皇の祖母である。

配祀紳として、以下を祀る。

 八幡神:彦火々出見命(ひこほほでみのみこと) 山の神、豊玉姫命の夫

 住吉神:綿津見命 海の神

 乙宮神:宗像三女神 海の神

 印鑰神:天児屋根命 祝詞の神様

 応神天皇 八幡大神 武門の神様

 菅原道真公 学問の神様

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創建は、欽明天皇二十五年(564)に勅願造立されたことに寄る。鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦二年(1212)北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245)執権北条経時が勅により祭祀の礼式を定めたと伝えられる。

ついで、建長三年(1251)には与賀郷の地頭であった大宰少弐資能安穏のため洪鐘一口が寄進され、永正十年(1513)には神階一位に進められた。

室町後期に、太宰府長官であった少弐政資公は山口の大内氏に追われ佐嘉に落ち延びて来て、文明十四年(1482)に現在の赤松町龍泰寺一帯にあった父教頼の旧館を開き与賀城を築き、当神社を鬼門の鎮守として崇敬し社殿を再興、楼門を造立し神事を修飾した。

その後、少弐氏時代から高木氏、竜造寺氏、鍋島氏にかけては、与賀郷の宗廟として領主・藩主を始め一般士民の崇敬厚く、特に鍋島氏は佐賀城の鎮守、各代の産土神社として深く尊崇され、数々の寄進をなされた。

鎌倉時代から江戸時代までは、現在の佐賀市西与賀町・東与賀町を含めた与賀荘一円、即ち佐賀城の南部・西部・北西部の地域の総鎮守宮であった。

大正14年に県社に列格した。

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鍋島藩政時代には、神事として旧与賀郷の注連元(くめもと)行列をはじめ流鏑馬、連歌、管弦等特殊なものがあった。そのなごりとして、佐賀神楽(かぐら)、獅子舞を現在伝承している。

※以上、文章は公式サイトより抜粋・編集

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風浪宮

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ふうろうぐう。福岡県大川市にある神社である。

代々阿曇氏が祭祀を司る。

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ご祭神は、

 少童命三座(表津少童命、中津少童命、底津少童命)

 息長垂姫命(神功皇后)

 住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)

 高良玉垂命

を祀る。

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創建は、神功皇后が三韓征伐からの帰途、192年に筑後国葦原ノ津(大川榎津)に寄った時、阿曇連磯良丸に少童命(ワダツミノミコト)を祀ったのが始まりとされる。

地元では「おふろうさん」の名で親しまれている。

現在の本殿は戦国時代の筑後国柳川城主の蒲池鑑盛の再建によるものであり、本殿と石造五重塔は国の重要文化財に指定されている。

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※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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2016年4月14日 (木)

曩祖八幡宮

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のうそはちまんぐう。福岡県飯塚市にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

旧称は納祖宮。 飯塚の鎮守として崇敬され、また子守りの神としても信仰されている。

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ご祭神は、

 応神天皇 

 仲哀天皇 

 神功皇后 

 武内宿禰

 天神地祇

を祀る。

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創建は、神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられる。

このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるという。

社伝では、その跡に作られたのが当社であるという。

創建年代は不詳であるが、延文4年(1359)には社殿が建立されていた。

大正13年に県社に昇格した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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鳥居は左右にも並んでいる。

額には手前が天満宮、奥が須佐宮の文字が掘られている。

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境内の右側にある産の宮。

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本殿の右側の奥に若光稲荷神社がある。

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紅葉八幡宮

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もみじはちまんぐう。福岡県福岡市早良区にある。

旧県社。

ご祭神は、 神功皇后・応神天皇・菟道稚郎子命の他、大己貴命・稲倉魂命・事代主命等12柱を祀る。

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創建は、文明14年(1482)、筑前国早良郡橋本村に土着した陸奥国刈田の住人・柴田繁信によって八幡宮が建立されたのが神社の創建とされる。

以来、橋本村一円の鎮守神として尊崇を集め、江戸時代には、橋本村で生まれ育った福岡3代藩主・黒田光之の産土神として橋本の八幡宮は藩より格別の崇敬を受けた。

寛文6年(1666)8月、橋本村より西新百松原の地へ遷宮し社殿の造営し藩内有数の大社となった。後代の藩主の崇敬も篤く、神領100石が寄進され、たびたび藩主の親拝があった。

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明治5年(1872)11月3日村社となる。その後、境内地近隣に鉄道が引かれたため大正2年(1913)10月16日、現在地に移転した(移転する前の旧地において当社境内正面にあった杉山神社は、僅かに移転しているものの今も西新の地に残っている)。

大正11年(1922)4月29日、県社に昇格。

現在でも西新地区の鎮守神として、西新・藤崎地域の住民の崇敬を受ける。

なお、当社が移転した後の橋本地区には、現在では新たに橋本八幡宮が鎮座している。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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本殿左側に宇賀稲荷神社がある。

 

参道の左右に紅葉が植えられていて、秋の紅葉のシーズンは名前のとおり美しい参道になることが想像できた。

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高祖神社

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たかすじんじゃ。福岡県糸島市の高祖山西麓にある。

旧県社。

ご祭神は、

 彦火火出見尊 「日向二代目」

 玉依姫尊 

 神功皇后

を祀る。

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「九州諸将軍記」には「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。

この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。

現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。

旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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参道の途中の左側に徳満宮があった。

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鏡神社

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かがみじんじゃ。佐賀県唐津市の鏡山の麓にある。

現在は松浦総鎮守鏡神社と呼ばれ、旧称は鏡尊廟宮、鏡宮、松浦宮、板櫃社、久里大明神。

古来、鏡神社は松浦国の総社として尊崇され、松浦三社の一位に列せられていた。

遥かなる時を越え今も松浦地方の鎮守神として親しまれている。

楊柳観音菩薩を始め立神様なども神道で祭祀をしており、神仏習合の名残を今も受け継いでいる神社である。

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ご祭神は、 本殿2棟に、一ノ宮に息長足姫命(神功皇后)、二ノ宮に藤原広嗣を祀る。

『源氏物語』玉鬘の巻で肥後の豪族大夫監が玉鬘に宛てた歌に「松浦なる鏡の神」と詠まれている。

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創建は、 社伝では、三韓征伐の際、神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めたが、その後この鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が自らの生霊を鏡に込めて祀ったのに始まると伝える。

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一ノ宮

また、三韓征伐の帰途、神功皇后は当地で陣痛に襲われたが、里人が差し出した湧き水を飲むと陣痛が治まり、宇美の地にて無事に応神天皇を産んだという。このことから安産の霊験もあるとされる。

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二ノ宮

藤原広嗣の乱により藤原広嗣が当地で処刑された10年後の天平勝宝2年(750)、肥前国司に左遷された吉備真備により、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。

広嗣処刑の後、玄昉が筑紫に左遷されそこで歿したことから、これは広嗣の怨霊のせいであるとされ、それを慰めるためであった。

元は松浦宮・松浦廟宮と呼ばれ、空海(弘法大師)が鏡神社に改称したと伝える。

※Wikipediaより抜粋・編集

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唐津神社

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からつじんじゃ。佐賀県唐津市南城内にある。

旧県社。

ご祭神は一ノ宮に住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)、二ノ宮に神田宗次公(こうだむねつぐこう)、相殿に水波能女神を祀る。

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創建は、社伝によれば、三韓征伐に際して航海の安全を住吉三神に祈願した神功皇后が、帰朝の後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのに起源を持つ。

天平勝宝7年(755年)に、時の領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得たので、神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、9月29日に「唐津大明神」の称号を賜ったという。

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文治2年(1186)、宗次の後裔を称する神田広(実は源久の5男)が社殿を造立して神田を寄進し、神田宗次の霊を合祀したという。

慶長年中に寺沢氏が唐津城を築いて入部すると、同7年(1602)(または11年(1606))に当神社を再建、以後唐津藩主の祈願所と定められ、崇敬を受けた。

明治6年(1873)に郷社に列し、これを機に現在の「唐津神社」に改称した。それ以前の神社の名前は不明である。

昭和17年(1942)県社に昇格。戦後、神社本庁に参加した。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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田島神社

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たじまじんじゃ。佐賀県唐津市の加部島にある。

式内社(名神大社)。旧国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

ご祭神は次の5柱。主祭神の3柱は宗像大社祭神の宗像三女神と同じで、田島神社では「田島三神」と総称される。

主祭神 田心姫尊 市杵島姫尊 湍津姫尊

配祀神 大山祇神 稚武王尊(仲哀天皇の弟)

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創建は不詳。鎮座地の加部島はかつては「姫島」・「姫神島」と呼ばれていた。

『松浦古事記』では、天平3年(731)に相殿に稚武王を配祀し、天平10年(738)に聖武天皇より大伴古麻呂に詔命があり「田島大名神」の神号が贈られたとする。

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『新抄格勅符抄』大同元年(806)牒によると、当時の「田島神(田嶋神)」には神戸として16戸が肥前国から充てられていた。

国史では、天安3年(859)に「田島神(田嶋神)」の神階が従四位下に昇叙された旨が見える。その後も貞観2年(860)に従四位上、貞観15年(873)に正四位下、貞観18年(876)に正四位下、元慶8年(884)に正四位上への昇叙のことがあった。

延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では肥前国松浦郡に「田島坐神社(田嶋坐神社) 名神大」と記載され、名神大社に列している。

江戸時代には唐津藩の祈願所となった。 明治維新後、明治4年に近代社格制度において国幣中社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

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神階は、

天安3年(859)1月27日、従五位下から従四位下

貞観2年(860)2月8日、従四位下から従四位上

貞観15年(873)9月16日、従四位上から正四位下

貞観18年(876)6月8日、従四位上ママから正四位下ママ

元慶8年(884)12月16日、正四位下から正四位上

すべて『日本三代実録』、表記はすべて「田島神(田嶋神)」。

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境内社として、佐用姫伝説の松浦佐用姫を祀る佐與姫神社(佐用姫神社)が鎮座し、佐用姫が変じたとされる石(望夫石)が祀られている。

※以上、文章はWikipediaより抜粋・編集

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御崎神社(みさきじんじゃ)。

案内板の説明書きは以下のとおり。

御祭神

 級長津彦神(しなつひこのかみ)

 級長津姫神(しなつひめのかみ)

 猿田彦神(さるだひこのかみ)

文禄の昔、小鷹丸の船首に、瑞真榊を立て三種の神器を奉り、大陸に七度の往復をしたが無事帰国した。

その後、神恩感謝の為、姫島の神々と船霊の御守護と共に海上安全の守護神としてお祀りすることになった。

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太閤祈念石

本殿左側を抜けて裏の山に登っていくと大きな丸い岩がいくつか転がっており、そのひとつに注連縄がかけられていた。案内板の説明書きは以下のとおり。

一名願かけ石、太閤石、祈念石とも呼ばれている。本殿後の森林中に在る大岩石である。豊臣秀吉文禄の昔、当神社神主等七日間の断食潔斎沐浴して祈念を修し、「速に大願成就せばこの巨巌二つに割るべし」と祈りて、満願に達した時、秀吉自ら神前に熱祷をこめ槍の石突を以て巨巌を突くと、一山鳴動して真二つに割れたと伝えられている。

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2016年4月10日 (日)

伊須流岐比古神社

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※Wikipediaより抜粋・編集

いするぎひこじんじゃ。石川県鹿島郡中能登町の石動山山頂(大御前)にある。

伊須留岐比古神社とも表記される。

式内社。能登国二宮。旧郷社。

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ご祭神は伊須流岐比古神(石動彦)、白山比咩神を祀る。

このうち、主神の伊須流岐比古神は、すなわち五社権現とも称される石動権現である。

「いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだという。

伊須流岐比古神社は石の鳴動を鎮め、その石を神として祭るべく創建されたと伝わる。

明治期以降の国家神道の下で権現の名称は否定され、現在は伊須流岐比古神または石動彦と呼ばれている。 相殿神として、白山比咩神が祭られている。

なお、石動彦と白山比咩神は、イザナギ、イザナミとしても扱われている。かつての本地仏は、虚空蔵菩薩(伊須流岐比古神)、十一面観音(白山比咩神)であった。

かつては、白山と並ぶ北陸地方を中心として広い地域からの尊敬を集める一大霊山であった。

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拝殿と本殿

創建は養老元年(717年)白山を開いた泰澄により開山したと言われているが、崇神天皇6年(紀元前92年)説もある。泰澄開山は新縁起によるもので、旧縁起は違う人物が開山したとある。

治承4年(1180年)に藤原家通が参拝し、以降は勅願寺として保護され、尊敬を受ける。神仏習合の形態であり、伊須流岐比古神社は真言宗寺院の「石動山天平寺」を称していた

天平寺は、院坊360余、衆徒約3,000人の規模を誇った。 中世以降、しばしば焼き討ちにあっては再建された。南北朝時代には足利尊氏の軍に焼き討ちにされた後、暦応4年(1341年)に尊氏の手で再建され、能登国守護の畠山氏により保護された。

天正10年(1582年)、上杉謙信死後に七尾に攻め込んだ前田利家に率いられた織田軍と、上杉方についた畠山軍との合戦に巻き込まれ、全山焼き討ちに遭い、またもや焼失したが、翌天正11年(1583年)に、勅命により豊臣秀吉の手で再興された。

現存する本殿は、承応2年(1653年)に加賀藩主前田利常により建てられたものであり、建立当時は「大宮」と呼ばれていた。

明治5年(1872年)、神仏分離令により寺号を廃し郷社に列した。その際、廃仏毀釈が行われ、石動山全山に渡って伽藍・院坊が破壊され、寺としての痕跡は徹底的に破却された。その後、わずかに残された大宮を御輿堂の場所に移設して、それぞれ本殿・拝殿とした。

 

富山県射水市の放生津八幡宮では江戸時代より、高岡市の二上射水神社では明治期に休止となり、昭和31年(1956年)より復活し現在も行われている、全国的にも珍しい古代信仰の形態である築山行事が行われているが、ここ伊須流岐比古神社でも明治期まで行われていた。

なお、3ケ所の主神の見た目から、放生津の「足なし」、二上山の「手なし」、石動山の「口なし」といわれてきた。

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復元された大宮坊

現在、地元自治体の手によって発掘調査が継続的に行われており、当時の全貌の解明が進められている。さらに、大宮坊が復元されるなど、史跡公園としての整備を行っている。

 

前年10月下旬に来たときは林道の整備工事で通れず断念し、麓の天日陰比咩神社にお参りした。本当は再度違う道から上がれたかもしれないのに断念したのだった。冬は史跡公園の資料館が閉鎖されるので、春になってから再度訪れた。こちらは現在は誰もお祀りをしていない。近所の資料館では三種の神器が展示されている始末であった。知人の車に乗せて行ってもらったが、道路の処々落ちてきた石が転がっており、林道が整備されていた静岡県の秋葉山本宮秋葉神社とは登り坂の様子が違った。

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2016年4月 6日 (水)

日枝神社(富山市)

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※Wikipediaより抜粋・編集

ひえじんじゃ。富山県富山市にある。

神社本庁の別表神社。

別称「富山山王さん」。毎年5月31日より行なわれる春季例大祭「山王まつり」は、「さんのはん(さん)の祭り」として親しまれる富山県内最大の祭りで、大勢の人々で賑わう。

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ご祭紳は、大山咋神・大己貴命を主祭神とし、相殿に天照大御神・豊受大御神を祀る。

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創建の年代は不詳である。最も古い記録は建武2年(1335年)のもので、その頃には越中国新川郡針原に広い境内地をもって鎮座していたとある。

その後、南北朝の戦乱を避けて旧上新川郡大山町隠土、旧上新川郡中野村、旧婦負郡藤居村(現在の富山城跡)と各地を遷座した。

天正15年(1587年)、前田利長が富山城に入城して以降は、富山前田家の産土社に定められ、新たに社地・社殿が寄進された。

明治6年に郷社に列した。明治8年、天照大御神を祀る北神明社、豊受大御神を祀る中神明社を合祀した。

明治32年、境内地に新県庁を建設するのにあわせ、かつて鎮座していた縁で富山城跡内に遷座し、同年8月2日、県社に昇格した。しかし、同年8月12日に市街全域を焼く大火があり、社殿を焼失した。

明治34年、現在地に本殿・拝殿を再建した。昭和43年、神社本庁の別表神社に加列された。

平成18年(2006年)には、本殿の修復、幣殿の増築、廻廊の新築工事が行われた。

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2016年4月 5日 (火)

武水別神社

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※Wikipediaより抜粋・編集

たけみずわけじんじゃ。長野県千曲市八幡にある。

式内社(名神大社)。旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

旧称は「八幡宮」。現在も「八幡(やわた)さま」「八幡神社(やわたじんじゃ)」の通称がある。

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ご祭神は、主祭神に武水別大神(たけみずわけのおおかみ)を祀る。社伝では、善光寺平の豊穣と千曲川の氾濫防止を祈って祀られたとする。

相殿神に、総じて八幡神にあたる、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、比咩大神(ひめおおかみ)を祀る。

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創建は不詳である。社伝では、第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたという。

国史での初見は貞観8年(866年)で、無位から一躍して従二位の神階奉授を受けている。

また延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では信濃国更級郡に「武水別神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。ただしこれらが当社に比定されるに至る根拠は確かではなく、他の論社として桶知大神社(長野県長野市大岡丙)が挙げられている。

武水別神社一帯は平安時代末期より石清水八幡宮の荘園となっており、安和年間(968年-970年)に石清水八幡宮から八幡神(相殿の3柱)が勧請されたと伝える。

八幡神は源氏の氏神としても知られ、武水別神社はこの地方随一の八幡宮として広く武門の崇敬を受けた。

また木曾義仲が祈願したと伝えられるほか、川中島の戦い時の上杉謙信の勧請文なども残されている。 慶安元年(1648年)には、江戸幕府から朱印地200石を与えられた。

明治に入り、それまで称していた「八幡宮」から「武水別神社」の社名に復した。また、近代社格制度では当初郷社に列したが、明治41年(1908年)に県社に昇格した。

なお、1939年に軍用馬育成のため施行された種馬統制法により日本在来種の木曽馬の種馬が廃用処分になった際、同神社の神馬として使役されていた「神明号」は処分を免れた。同馬は1950年に民間へ払い下げられ、木曽馬登録事業の1号馬として種雄馬になり、同種の血統復元に貢献した。

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本殿の背後に天紙地祇社があった。

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小野神社・矢彦神社

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※Wikipediaより抜粋・編集

おのじんじゃ・やひこじんじゃ。ともに長野県にあり、小野神社は長野県塩尻市、矢彦神社は長野県上伊那郡辰野町に位置し、同じ社叢に隣接して鎮座している。

かつては1つの神社であったと伝えるが、現在は別の神社である。小野神社は信濃国二宮。両社とも旧県社。

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小野神社拝殿

小野神社のご祭神は、建御名方命 (たけみなかたのみこと)を祀る。

矢彦神社のご祭神は以下の通りである。

正殿
大己貴命 (おおなむちのみこと:大国主命)
事代主命 (ことしろぬしのみこと)
 
副殿
建御名方命 (たけみなかたのみこと)
八坂刀売命 (やさかとめのみこと)
 
南殿
天香語山命 (あめのかごやまのみこと)
熟穂屋姫命 (うましほやひめのみこと)
 
北殿
神倭磐余彦天皇 (かむやまといわれひこのすめらみこと:初代神武天皇)
誉田別天皇 (ほんだわけのすめらみこと:第15代応神天皇)

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矢彦神社仮拝殿

創建年代は不詳である。伝承では、建御名方命が諏訪に入ろうとしたところ諏訪には洩矢神がいて入れなかったため、建御名方命はこの小野の地にしばらく留まったという。

また、矢彦神社社伝では、大己貴命が国作りに勤しんでいた折、御子の事代主命・建御名方命を従えてこの地に立ち寄ったという。そして欽明天皇年間(539年-571年?)、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀売命を副殿に祀って祭祀の形が整ったと伝える。

創祀の年代等は明らかではないが、当地が古くから交通の要衝であったこと、社宝の神代鉾・鉄鐸・御正体があることなどから、古い時期から祀られた神社であると見られている。

国史・神名帳等の文献には小野神社・矢彦神社に関する記載はない。

神名の初出は、諏訪大社上社の『祝詞段』(嘉禎3年(1237年)成立)にある「小野ワヤヒコ北方南方末若宮大明神」の文言である。

永禄10年(1567年)の仁科盛政起請文には「小野南北大明神」と見える。また、信濃国の二宮として崇敬されたといわれ、天正7年(1579年)の南方久吉契状に「小野二之宮造営」の記載がある。

両社は古くは1つの神社を成していたといわれるが、小野盆地において飯田城主毛利秀頼と松本城主石川数正の領地争いがあり、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の裁定によって盆地が北小野・南小野に分けられたことに伴い、神社境内も分割された。

北小野・南小野の境界線は南方の小川であるため、小野神社・矢彦神社とも境内は北小野の地籍であったが、社叢南半分の矢彦神社が南小野の氏神となり、矢彦神社境内は南小野の飛地という扱いとなった。そして、この状態が現在に至るまで続いている。

明治に入り、両社とも近代社格制度では県社に列した。

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矢彦神社拝殿

矢彦神社の拝殿は改修中であった。工事は28年6月までの予定。

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手長神社

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※Wikipediaより抜粋・編集

てながじんじゃ。長野県諏訪市にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。諏訪大社上社末社。

ご祭神は、手摩乳命 (てなづちのみこと)を祀る。

別名を「手長彦神」といい、諏訪大社のご祭神・建御名方神に随従する神で、建御名方神が諏訪大社に祀られる以前からこの地で信仰されていた神とされる。

日本神話では、建御名方神の先祖の奇稲田姫の母神の名として登場する。同じ諏訪市内には父神の名である足摩乳命を祀る足長神社もある。

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創建の由諸は不明である。境内の近くには旧石器時代・古墳時代の複合遺跡である手長丘遺跡が、境内上方には茶臼山古墳群があり、周辺には古代から人が住んでいた。

古くは「手長宮」・「手長大明神」と称され、諏訪大社の末社であった。

元は桑原郷の総鎮守で、足摩乳命とともに祀られていた。のちに鎌倉時代に桑原郷が上桑原と下桑原に分けられたとき、下桑原に手摩乳命を祀る手長神社が作られ、上桑原の足長神社とともにそれぞれの鎮守となったとされる。

領主・武家や庶民からの崇敬が篤く、高島城の鬼門に位置することから諏訪藩家中の総鎮守とされた。

次回は足長神社、八劍神社も一緒にお参りしようと思う。

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2016年4月 4日 (月)

秩父神社

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ちちぶじんじゃ。埼玉県秩父市にある。

式内社、武蔵国四宮。旧国幣小社。現在は神社本庁の別表神社。

秩父地方の総鎮守。

三峯神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社である。

武州六大明神に四宮として数えられ、武蔵総社六所宮の大國魂神社(東京都府中市)にも祀られている。大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)では、当社の神輿も巡行される。

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ご祭神は、

八意思兼命 (やごころおもいかねのみこと)

知知夫彦命 (ちちぶひこのみこと) - 八意思兼命の十世孫で、初代知知夫国造

天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) - 鎌倉時代に合祀

秩父宮雍仁親王 - 昭和天皇の弟。昭和28年に合祀

元々の祭神は八意思兼命と知知夫彦命ということだが、これには諸説あり、八意思兼命・知知夫彦命のほか、思兼命の御子の天下春命、大己貴命、単に地方名を冠して「秩父大神」とする説などがある。

天之御中主神は明治の神仏分離のときに改められたもので、それ以前の神仏習合時代には妙見菩薩であった(後述)。鎌倉時代に近くに祀られていたものを合祀したものであるが、こちらの方が有名となり、江戸時代までは「秩父大宮妙見宮」と呼ばれていた。

当社の社殿と参道の南側延長線上に武甲山(時代によって武光山、秩父嶽、妙見山などと呼ばれる)があり、元々は武甲山を神奈備として遥拝する聖地であったと考えられている。

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創建は『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、崇神天皇10年、知知夫国の国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神である八意思兼命を祀ったことに始まるとされる。

允恭天皇年間に知知夫彦命の九世子孫・知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったという。

地域名の「秩父」の名を冠するが、「知知夫」から「秩父」に変わった時期は明らかではない(「秩父」の名称自体の初見は708年)。

その後、律令制度の崩壊により、秩父神社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰微していったものと考えられており、代わって登場したのが妙見社である。

社記および『風土記稿』によれば、天慶年間(938年-947年)、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。

これ以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが秩父の妙見社の始まりである。

その後良文は下総国に居を移した。下総での子孫が建立した千葉神社の祭神も妙見菩薩である。一方、秩父に土着した子孫は秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。

鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀し、秩父三十四箇所の旧15番札所・母巣山蔵福寺(現在は廃寺)が別当寺的な存在で当社を管理した。

これ以降、明治の神仏分離まで「妙見宮」として栄え、延喜式に記載された本来の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が有名となった。

江戸時代の絵図では、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御碕神社の4祠が配されている。

神宮司社は式内社である秩父神社の衰微した姿であると云われており、江戸中期の儒者である斉藤鶴磯は「武蔵野話」の中で、この神宮司社について、

「この神祇は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家を貸しておもやをとらるるのたぐひにて、いづれ寺院神祇には、えてある事なり」

と評している。

明治の神仏分離により、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名も本来の「秩父神社」に戻した。

鳥居の扁額には「知知夫神社」と表記されている。頒布されている護符などに現在も妙見信仰が遺されている。

明治17年(1884年)の秩父事件では、困民党軍が境内に集結した。

 

神階については、いずれも「秩父神」と表記され、「勲七等」と付記されている。

貞観4年(862年)7月21日、正五位下から正五位上
貞観13年(871年)11月10日、従四位下
元慶2年(878年)12月8日、従四位上から正四位下
(以上、いずれも『日本三代実録』)

 

江戸時代に徳川家康の命により現在の社殿が建てられ、社殿には左甚五郎作と伝えられる「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、さまざまな彫刻が施された。

毎年12月に行われる例祭「秩父夜祭」は、京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山祭及び日本三大美祭に数えられ、多くの観光客が訪れる。

全国の一宮やそれに準ずる神社の祭神を祀る天神地祇社が摂末社にある関係で、全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」から、2006年に「知知夫国新一の宮」に認定された。

 

二度目のお参りとなった。前回は街コンの開催で境内が騒がしかったが、今回はじっくりお参りできた。御田植え祭の日であった。本殿後方の天神地祇社の前で熱心に祈っている女性がいた。

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寳登山神社

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ほどさんじんじゃ。埼玉県秩父郡長瀞町にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

秩父神社・三峯神社とともに秩父三社の一社である。宝登山山頂に奥宮が鎮座する。

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ご祭神は、

神日本磐余彦尊 (かんやまといわれひこのみこと、神武天皇)

大山祗神 (おおやまづみのかみ)

火産霊神 (ほむすびのかみ)

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創建は社伝によれば、景行天皇41年(111)、天皇の皇子・日本武尊による東征の際、尊が遥拝しようと山頂に向っていると巨犬が出てきて道案内をした。

その途中、東北方より猛火の燃えて来るのに遭い、尊の進むことも退くこともできない状態になってしまった。すると、巨犬が猛然と火中に跳入り火を消し止め、尊は無事頂上へ登り遥拝することができた。

尊は巨犬に大いに感謝したところ、忽然と姿を消した。このことから「火止山」の名が起き、のちに「宝登山」となったという。

また、巨犬は大山祇神の神犬であった事を知り、防火守護のため火産霊神を拝し、その後山麓に社殿を建て三神を鎮祭した。これが当社の起源であるとされる。

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創建にまつわる由緒が日本武尊の東征の際のエピソードなのに、ご祭神には加えられていない。

本殿の後方に日本武尊社があった。

 

2011年5月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン(フランス語版第2版)」において、1つ星に選定されているとのことで、海外からの旅行者も立ち寄るようだ。この日も帰り際に騒がしい中国人観光客の団体が入ってくるところで、かち合わなくてよかった。

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箭弓稲荷神社

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やきゅういなりじんじゃ。埼玉県東松山市にある。

戦後、神社本庁の別表神社となった。

日本三大稲荷の一つとしてあげられることがある。

ちょうど二週間前にお参りしたので、神社の詳細はこちらを。

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今回の目的はお参りして再度彫刻を確認するとともに、写真の大判(12×18)のご朱印帳を分けていただくことであった。

二週間前にお参りしたときは彫刻の素晴らしさに気をとられ、授与所に陳列されたご朱印帳が目に入らず、手持ちのご朱印帳にお願いしたのだった。

大判のオリジナルご朱印帳はなかなかない。こちらのものは稲荷紋に弓を引く?デザイン。それに牡丹の刺繍が入っている(牡丹園が有名)。

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二宮神社(あきる野市)

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にのみやじんじゃ。東京都あきる野市二宮にある。

武蔵国二宮。旧郷社。

別称は「小河神社(おがわじんじゃ)」。古くは「小河大明神」または「二宮大明神」とも称された。

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ご祭神は国常立尊 (くにとこたちのみこと)を祀っている。

創立年代は不詳である。

『和名抄』に記されている武蔵国多摩郡小川郷の鎮守であり、「小河大明神」とも称された。

当社は武蔵国の二宮であったとされ、『神道集』『私案抄』にみられる「武州六大明神」の一角に数えられている。ただ、この六社のうち唯一式内社でない。

現在も武蔵国総社・六所宮(現 大國魂神社)の一座に祀られていて、周辺の地名も「二宮」と称されている。

古い記録によると、藤原秀郷が生国の山王二十一社中の二宮を崇敬する縁故をもって特に当社を崇敬し、天慶の乱に際し戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営した。

源頼朝、北条氏政の崇敬も篤く、ことに北条氏照は滝山城主となって、同氏の祈願所とした。のち、神殿・神宮宅は罹災し、記録の大半が焼失した。

一方、鎌倉時代には当地付近に大石氏中興の祖とされる信重が城館を構え、5代にわたって居城としたとの記録がある。

この「二宮城」の所在を探るため、昭和47年(1972)に二宮神社境内の一角が発掘調査されたが、関係する資料を得ることはできず否定された。

しかし、この発掘調査では、寺院に関係する小型の金銅製薬師如来像や中世の瓦が発見され、新たな謎を呼んでいる。特に、薬師如来像は小河大明神の御正体と推測されている。

天正19年(1591)、徳川家康より朱印15石を受け、以後、代々継承されてきた。現在の本殿は、江戸時代に建立されたといわれる。

明治3年(1870−1871)、現社名に改称した。

※以上、文章はWikipediaを抜粋・編集

以前からお参りしようと考えていたが、車を停める場所がなさそうなので躊躇していた。東京に引越した機会に行ってみた。社務所にご朱印受付の日程が貼り出されていた。

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2016年4月 3日 (日)

御紋菓(白山比咩神社)

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白山比咩神社のお朔日参りに撤下御饌(おさがり)で頒ちいただいた干菓子は御神紋を象ったもの。

白山比咩神社の御神紋は「三子持亀甲瓜花(みつこみちきっこううりはな)」というもので、三重の亀甲のなかに瓜の花が描かれている。

瓜は蔓が伸びていくから、繁栄の印なんだろうな。

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そば餅(阿蘇神社)

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阿蘇神社からお符とともに送られてきた御神菓はそば餅だった。

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生菓子は珍しいな。美味しくいただいた。

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2016年4月 1日 (金)

白山比咩神社

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しらやまひめじんじゃ。石川県白山市にある。

加賀國一宮。国幣中社。神社本庁の別表神社。 全国に2,000社以上ある白山神社の総本社。通称は白山(しらやま)さん、白山権現。

何度もお参りしているので、詳細はこちらを。

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初めてお朔日参りをした。

夜明け前の暗いうちからたくさんの方がお参りしている。

商売をしている方々はとくに熱心にお参りしているようだ。

白山開山1300年記念事業「白山奥宮祈祷殿・社務所改修工事」があるそうなので、些少ではあるが協賛金を納めさせていただいた。

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