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2016年3月21日 (月)

二宮赤城神社

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にのみやあかぎじんじゃ。群馬県前橋市二之宮町にある。

式内社(名神大社)の論社。上野国二宮論社。旧郷社。

関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。

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ご祭神は、豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)、大己貴尊 (おおなむちのみこと)。

創建は不詳で、平安時代にさかのぼると見られる。

赤城南麓には豊城入彦命を祖とする上毛野氏がいたと伝わっており、当社の創建に関係したともいわれる。

当社が「二宮」と称したのは12世紀前後と見られる。

六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があり、その論社とされている。

戦国時代末期には北条氏直により荒廃したが、大胡城に入った牧野氏により社殿が整備されたという。

明治時代には、近代社格制度において郷社に列した。三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて国幣中社にしようとする動きもあったが、終戦により実現はしなかった。

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「赤城神社」を称する神社は群馬県を中心として数多く存在する。それらの大元とされる『延喜式神名帳』記載の名神大社の比定を巡って山頂の大洞赤城神社、山腹の三夜沢赤城神社、山麓の二宮赤城神社の間で議論がなされてきたが、確定していない。

当社は赤城山麓に位置し、東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。また、数多い赤城神社のなかでも唯一「二宮」を称するのが特徴である。

そのため、一宮・二宮が制定された頃は当社が中心となっていたと見られ、遅くとも鎌倉時代には当社は里宮として赤城信仰の中心をなしていたと推測される。

現在の赤城信仰の中心は山腹の三夜沢にあるが、三夜沢と当社との関係は深く、4月・11月の年2回両社間での神輿の渡御がある。

三夜沢にある古代祭祀遺跡の「櫃石」は当社の真北に位置しており、それとの関係も指摘される。なお、三夜沢と当社との間には近戸神社数社が鎮座する。この「近戸」は「本社の社領域の入り口」を意味するとされ、神輿渡御の際に休憩した地として月田・深津の近戸神社があったという。

 

夕方になってしまったが、北関東自動車道の波志江PAのスマートETCから近いので、お参りすることにした。境内ではご神職が片付けをされていた。お声がけせずにお参りだけ済ませ、帰路についた。これで、赤城神社の三社にお参りすることができた。

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