« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年3月

2016年3月26日 (土)

飛騨総社

160326_1548

ひだそうじゃ。岐阜県高山市にある。

旧県社。飛騨国の総社である。

延喜式神名帳所載八座(大野郡三座、荒城郡五座)と国史記載社十座を祀る。

毎年5月4日、5日には例祭では、千人行列のほか、二人一組による親子獅子舞(22人による曲芸のような舞)が行われる。

160326_1545

ご祭神は以下のとおりである。

正殿主神

大八椅命:大八椅命は飛騨国の最初の国造、天火明命の後裔。

脇殿(延喜式神名帳所載八座)

水無神 (飛騨一宮水無神社祭神 位山)
槻本神 (槻本神社祭神 大山津見神)
荏名神 (荏名神社祭神 高皇産靈神)
大津神 (大津神社祭神 大彦命、武渟河別命)
荒城神 (荒城神社祭神 大荒木之命)
高田神 (高田神社祭神 高魂命)
阿多由太神 (阿多由太神社祭神 大物主神)
栗原神 (栗原神社祭神 五十猛命)

脇殿(国史記載社十座)

大歳神走淵神
四天王神
遊幡石神
渡瀬神
道後神
気多若宮神
本母国津神
剣緒神
加茂若宮神

合祀

伊邪那岐命
伊邪那美命
菊理姫命

160326_1559

創建は平安時代の承平年間(931~938)と伝えられる。

文治2年(1191)に最初の社殿が築かれた。しかし、室町時代になると衰退する。

江戸時代の寛永年間に金森重頼により社殿の大改修が行われたが、天明元年(1781)の天明の大飢饉の頃から再び衰退し、境内も縮小される。

国学者である田中大秀(本居宣長門弟)は、その様子を嘆き、文化3年(1808)に「飛騨総社考」を著して再興を願う。

これを契機に文政3年(1820)に再建され、境内も拡大する。

160326_1538

明治20年(1887)より1890年にかけて大造営が行なわれ、南向きだった社殿を東向きにし、参道が整備された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

櫻山八幡宮

160326_1506

さくらやまはちまんぐう。岐阜県高山市にある。

秋の例祭は、春の日枝神社の例祭とともに高山祭として知られ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

160326_1511

ご祭神は八幡大神(応神天皇)を主祭神とし、相殿に熱田大神(日本武尊命)・香椎大神(仲哀天皇・神功皇后)を祀る。

160326_1524

創建は、仁徳天皇65年、飛騨国に二つの顔を持つ宿儺(すくな)という賊が現れ、それを討伐するために派遣された難波根子武振熊命が戦勝祈願のために先代の応神天皇を祀ったのに始まると伝える。

また、聖武天皇が諸国に設けた護国八幡だという説もある。

160326_1515

江戸時代に金森氏が当地の領主となったとき氏神として当社を保護し、宮川以北の住民を氏子とした。

明治時代に八幡神社に改称し、昭和7年に県社になる。

桜山八幡宮は戦後から称したもの。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

白鳥神社

160326_1332

しらとりじんじゃ。

岐阜県郡上市に鎮座する、地名「白鳥」の由来となった神社である。

旧郷社。

ご祭神は、伊弉冉尊、日本武尊を祀る。

創建については、社伝によると、仲哀天皇の時代に、この地に1羽の巨大な白鳥が数日間にわたり上空を旋回し続け、1枚の羽根を残して飛び去り、村人がこの白鳥を日本武尊ではないかと考えてこの羽根を祀ったのが起源であるという。

また、養老年間(717-724)、加賀国の白山山頂に白鳥が飛来し、白山開山である泰澄をこの地に導き、泰澄はこの地を霊地として白鳥寺を建立、その境内に白山頂上に祀る伊弉冉尊を勧請して白鳥社を創祀したのに始まるともいい、時期は不明だが、後に日本武尊と伊弉冉尊が合祀されたものともいう。

『美濃国神名記』に載せる郡上郡7社の中の「正六位上 白鳥明神」ではないかとされている。

160326_1333

室町時代の将軍足利義政の時(15世紀中頃)、当神社永久保存のために、当地の地頭遠江佐倉によって字外田の田7段が奉納された。

慶長年間(1596-1615)に白鳥寺は廃寺となるが、白鳥社は存続し、嘉永5年(1852)には越前志比の名匠大久保保吉郎右衛門の手により現在の本殿が再建された。

言い伝えによれば現在の本殿のすぐ裏に育成していたケヤキの巨木唯一本を用いて作られたとされている。

明治4年(1871)郷社に列し、同40年(1907)には境内社として稲荷神社が創建された。

明治40年(1907)の白鳥大火は白鳥神社まで襲い、拝殿は焼失したが、本殿は近隣住民の必死の努力によって危うく類焼を免れた。

拝殿は越前志比の大工大久保作左右衛門が明治末年に再建したものである。 かつては神木として、樹齢1300年と推測される欅が存在したが、平成10年(1998)に枯死してしまい伐採。現在は切り株のみあるが後世に伝承するため寄進された浄財で建立された鞘堂に祀られている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

長滝白山神社

160326_1345

ながたきはくさんじんじゃ。岐阜県郡上市白鳥町長滝にある。

日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。

明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治維新後の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。

神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである。

社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。

旧社格は県社。

160326_1349

ご祭神は、菊理媛神(白山比咩神・白山権現)、伊弉諾尊、伊弉冉尊である。

創建は、伝承によれば、養老元年(717)、白山中宮長滝寺として泰澄が創建したとされる。

同6年には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、元正自作の十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の本地仏を安置し、白山本地中宮長滝寺に改称したという。

天長5年(828)にはそれまでの法相宗から天台宗寺院へ改宗。同9年には白山三馬場の一つになる(『白山之記』)。

馬場とは禅定道の起点のこと。白山三馬場とは、美濃国の白山中宮長滝寺、加賀国の白山寺白山本宮(現 白山比咩神社)、越前国の平泉寺白山神社を指す。

160326_1359

160326_1357

平安時代の長滝寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたという。

文永8年(1271)には火災により半数の建物を焼失。正応3年(1290)には本殿が再建された。

160326_1353

江戸時代には白山嶺上の管理を巡り、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺、加賀馬場の白山寺白山本宮、越前馬場の平泉寺との論争が起きた。

日本全国の白山神社の半数以上が白山本地中宮長滝寺系統の白山神社であったという。

慶応4年(明治元年、1868)、神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離した。

白山本地中宮長滝寺の建物のうち、白山三社、拝殿は長滝白山神社となり、大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺となる。

明治32年(1899)に火災で社殿を焼失し、現在の建物は大正時代の再建である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平泉寺白山神社

160326_1200

へいせんじはくさんじんじゃ。福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある。

ご祭神は、本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。

160326_1202

創建は、養老元年(717)、泰澄によって開かれたという。

中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになる。

白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。

160326_1204

『平家物語』には、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。

斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。

160326_1206

戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、朝倉氏滅亡後の天正2年(1574)、一向一揆が勃発、逃れてきた朝倉景鏡をかくまった為一向一揆に焼き討ちされ衰亡。

その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けた。

160326_1211

寛政8年(1688)いさかいが絶えなかった越前馬場と加賀馬場の問題が江戸幕府により裁定された際に白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した。

明治時代に神仏分離令により寺号を捨て現在に至る。

境内の苔が有名である。旧玄成院(別当・平泉宮司邸)庭園は、昭和5年(1930)に国の名勝に指定された。

 

境内は昭和10年(1935)に「白山平泉寺城跡」として国の史跡に指定された。その後、平成9年(1997)に史跡の指定地域が追加され、指定名称が「白山平泉寺旧境内」に変更された 。

白山国立公園特別指定区域内にある。 また、「美しい日本の歴史的風土100選」(平成19年)、「かおり風景100選」(平成13年)に選定された。参道は「日本の道百選」(昭和61年(1986))に、平泉寺から白山までの白山禅定道が「歴史の道百選」(平成8年)に選定された。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

弁財天白龍王大権現(竹原弁財天)

160326_1118

べんざいてんはくりゅうおうだいごんげん。福井県吉田郡永平寺町竹原にある。

別名、竹原弁財天。

ご祭神は、弁財天と白蛇である。

160326_1125

創建は、養老年間に僧侶泰澄が開基した。

天台宗平泉寺の隆盛期、伽藍の一部として弁財天が祀られたといわれるが一向一揆の際に焼失した。

戦後復興し、商売繁盛の神様として知られている。

御神体の磐座の内部に白ヘビがすんでいて、“へびがみさん”と親しまれている。

永平寺に近く、一体は観光コースになっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

神明神社(福井市)

160326_1027

しんめいじんじゃ。福井県福井市宝永にある。

福居庄総社。旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

お神明さん(おしんめさん)の通称で呼ばれている。

160326_1040

ご祭神は天照大神を祀る。

創建は、社伝によれば、醍醐天皇の時代、内宮足羽御厨(みくりや)の北の庄の某が伊勢皇大神の勧請を願い出て勅許され、延長2年(924)に神霊を足羽神社に祀り、間もなく現在地に社殿を造営して遷座したという。

『吾妻鏡』には、建久3年(1192)、源頼朝が妹の一条能保の室に当社の領家職を与えたとの記述がある。

歴代領主の崇敬を受け、江戸幕府は朱印領百石を寄進した。

明治4年に県社に列格した。

 

写真のとおり、天候に恵まれたお参りになった。参道の桜の蕾が丸く膨らみ、開花直前の様子であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

永平寺

160326_0856

えいへいじ。福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。

總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)。

山号は吉祥山、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。

開山は道元。本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。

160326_0922

宗祖道元について

曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。

父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。

幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元は「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問を抱いていた。

道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。

しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られなかった。真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋した。

道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した(一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、亡くなった)。

日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。

160326_0938

道元は旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、寛元元年(1243年)興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かった。

当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあった。道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。

これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、「永久の和平」を意味する。

道元以降の永平寺

その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。

暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。

応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。 天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。 天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。 元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月21日 (月)

二宮赤城神社

160321_1644

にのみやあかぎじんじゃ。群馬県前橋市二之宮町にある。

式内社(名神大社)の論社。上野国二宮論社。旧郷社。

関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。

160321_1638

ご祭神は、豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)、大己貴尊 (おおなむちのみこと)。

創建は不詳で、平安時代にさかのぼると見られる。

赤城南麓には豊城入彦命を祖とする上毛野氏がいたと伝わっており、当社の創建に関係したともいわれる。

当社が「二宮」と称したのは12世紀前後と見られる。

六国史には「赤城神」に対する数度の神階奉授の記録があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があり、その論社とされている。

戦国時代末期には北条氏直により荒廃したが、大胡城に入った牧野氏により社殿が整備されたという。

明治時代には、近代社格制度において郷社に列した。三夜沢・大洞・二宮の三社を合わせて国幣中社にしようとする動きもあったが、終戦により実現はしなかった。

160321_1640

「赤城神社」を称する神社は群馬県を中心として数多く存在する。それらの大元とされる『延喜式神名帳』記載の名神大社の比定を巡って山頂の大洞赤城神社、山腹の三夜沢赤城神社、山麓の二宮赤城神社の間で議論がなされてきたが、確定していない。

当社は赤城山麓に位置し、東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。また、数多い赤城神社のなかでも唯一「二宮」を称するのが特徴である。

そのため、一宮・二宮が制定された頃は当社が中心となっていたと見られ、遅くとも鎌倉時代には当社は里宮として赤城信仰の中心をなしていたと推測される。

現在の赤城信仰の中心は山腹の三夜沢にあるが、三夜沢と当社との関係は深く、4月・11月の年2回両社間での神輿の渡御がある。

三夜沢にある古代祭祀遺跡の「櫃石」は当社の真北に位置しており、それとの関係も指摘される。なお、三夜沢と当社との間には近戸神社数社が鎮座する。この「近戸」は「本社の社領域の入り口」を意味するとされ、神輿渡御の際に休憩した地として月田・深津の近戸神社があったという。

 

夕方になってしまったが、北関東自動車道の波志江PAのスマートETCから近いので、お参りすることにした。境内ではご神職が片付けをされていた。お声がけせずにお参りだけ済ませ、帰路についた。これで、赤城神社の三社にお参りすることができた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

唐沢山神社

160321_1550

からさわやまじんじゃ。栃木県佐野市の唐沢山山頂にある。

旧別格官幣社。

160321_1536

ご祭神は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を祀る。

藤原秀郷は、平安時代中期の貴族・武将。下野大掾藤原村雄の子である。

室町時代には「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。

※掾(じょう)とは、日本の律令制四等官のうち三等官のこと。「掾」の文字は国司の三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。

もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヵ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大した。平将門の乱を鎮圧して鎮守府将軍となったことから忠皇の臣とされる。

死後、贈正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。

秀郷はまた俵藤太(田原藤太)の別名でも知られ、下野国押領使として唐沢山に唐沢山城を築城し、秀郷の子孫の佐野氏が居城した。

160321_1530

創建については、秀郷の後裔や佐野氏の旧臣らが中心となって秀郷を祀る神社の創建が始められ、明治16年(1883)、唐沢山城の本丸跡地に創建・鎮座された。

したがって、比較的歴史の新しい神社である。

160321_1532

明治23年(1890)に別格官幣社に列格した。

佐野市新吉水町(当社より西方2km)にある秀郷の墓所は飛地境内となっているそうだが、地図を探しても見当たらなかったので、今回のお参りは諦めた。

160321_1539

境内からの眺望。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

箭弓稲荷神社

160321_1257

やきゅういなりじんじゃ。埼玉県東松山市にある。

旧県社。戦後、神社本庁の別表神社となった。

日本三大稲荷の一つとしてあげられることがある。

160321_1300

ご祭紳は稲荷神社なので、保食神(宇迦之御魂神・豊受比賣神)を祀る。

160321_1301

創建は、和銅5年(712)と伝えられる。その頃は小さな祠だったようだ。

社名は箭(矢)と弓のこと。その由来については、平忠常の乱が関係している。

長元元年(1028)に下総国の平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。

長元3年(1030)、これを受けて源氏の棟梁・源満仲(多田満仲)の子であり、甲斐国守を勤める源頼信が、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢で、武勇の頼信も心を悩ませた。

その時、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけたので、問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。

これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納した。

その夜、白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝した。

一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建し、「箭弓稲荷大明神」と讃えたた。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。

以後、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。

似た内容の話として、延暦10年(791)、坂上田村麻呂が箭弓稲荷より南西約4kmにある物見山の悪竜を退治する際に、老人の姿の神が矢を授けたとの言い伝えもある。

160321_1311

関連する寺院に福聚寺があり、その草創については次のようにある。

当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。

元和3年(1617)、天海僧正が駿府から下野国へ神輿(二度葬される途中の家康と思われる)を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。

すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。

これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。

この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺という寺号を与え、庵主を別当職に補任した。

明治初年、神仏分離により福聚寺は別当から離れることとなった(福聚寺は今も東松山市本町に存在する)。

160321_1306

本殿の後方に穴宮稲荷(団十郎稲荷)がある。

七代目市川団十郎は、芸道一筋に生きた歌舞伎役者で当社の熱心な崇敬者であったと伝える。

社伝によると、歌舞伎の演じ物に「葛の葉」「狐忠信(義経千本桜四段目 河連法眼館の段)」があり、狐の仕草が非常に難しいとされるが、団十郎は稲荷大神に心願し、その加護を受け、ついに江戸柳盛座で見事に演じきり、大盛況のうちに興行を終えることができたという。

そのため、大願成就のための石祠一社を文政4年(1821)に奉納している。これは、お穴様と呼ばれる穴宮神社で、現在でも技芸向上に励む人々から信仰されている。

 

現代では社名の「やきゅう」に因んで、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝している。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れる。

また、これに因んで「バット絵馬」「ベース絵馬」等が頒布されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

氷川神社(川越市)

160321_1210

かわごえひかわじんじゃ。埼玉県川越市宮下町にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。

160321_1215

ご祭神は、素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命・脚摩乳命・手摩乳命。

2組の夫婦神が鎮座していることから、古くから縁結びの神として信仰されてきた。

毎朝8時より、持っていると良縁に恵まれるといわれる本殿の小石を縫製した縁結び玉が20体配られるため、早朝から行列が絶えない。

埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社と区別するため、川越氷川神社と称されることもある。 なお、川越市内に氷川神社は当社を含めて14社あるそうだ。

創建は古く、 欽明天皇2年(541)に入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。

長禄元年(1457)、河越城を築いた太田道灌は当社へ詣で、和歌を残している。

老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪

川越藩の歴代藩主の崇敬を受け、酒井忠勝、堀田正盛、松平斉典が社殿造営を行った。

昭和23年(1948)、境内より祭祀用の石剣が発掘され、当地では5世紀を中心とする古墳時代に集落が形成され、祭祀が行われていたことが判明した。

関東三大まつりで国の重要無形民俗文化財である川越祭り(川越氷川祭)は元々氷川神社の例大祭である。

結婚式のなかで行われる誓いの儀式「結い紐の儀」は川越氷川神社独自の儀式として商標登録されている。

七夕を含む夏には天の川に想いが届くよう江戸風鈴に願いが書かれた短冊を結わう縁結び風鈴で賑わう。

韓国の番組『私たち結婚しました』のロケ地となり「縁結びの神様」と紹介されるなど近年は外国人参拝者が非常に増え、英語や中国語など外国語で願いが書かれた絵馬が多いそうだ。 

160321_1214

境内に柿本人麻呂神社がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高麗神社

160321_1048

こまじんじゃ。埼玉県日高市にある。

旧県社。

160321_1051

ご祭神は高麗若光を祀っている。

高麗若光とはどのような人なのだろうか。

160321_1053

現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は716年武蔵国高麗郡が設置された地である。

中世以降、郡域が拡大し、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となった。

668年に唐・新羅に滅ぼされ、亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた。

703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わる。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。

この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されている。

高麗郡の建郡については、この動画がよくできているので、ぜひ観てほしい。

https://www.youtube.com/watch?v=pNgR7bgoTc4

160321_1055

神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。

高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。

160321_1112

境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅がある。

160321_1108

入口付近の敷地には、将軍標(しょうぐんひょう・ジャングンピョ)がある。

1992年に在日本大韓民国民団(民団)埼玉県地方本部によって木製のものが奉納されたが事故で破損し腐食したため、2005年になって現在の花崗岩で制作されたものが民団中央により寄贈された。

将軍標は西武池袋線の高麗駅の広場にも建てられており、何度か再建されている。この将軍標の建立は高麗神社よりも早い。 大韓民国の駐日大使なども参拝しているそうだ。

近くの聖天院に高麗若光の廟があるのだけど、お参りできなかった。

また、こちらでは水天宮のご朱印も授与しているので、併せていただいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月20日 (日)

井草八幡宮

160320_1530

いぐさはちまんぐう。東京都杉並区の青梅街道沿い、早稲田通り沿いにある。

神社本庁の別表神社。

都内でも有数の広大な社叢を有する(東京都で4番目の広さ)。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは遅野井八幡宮とも呼ばれていた。

160320_1522

ご祭神は八幡宮なので、八幡大神(応神天皇)を祀る。

創建については、縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っていた。

源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになった。

文明9年、太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたとの云い伝えがある。

江戸幕府三代将軍・徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があった。その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。

明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。

160320_1512

源頼朝が起請(文治5年)して霊験を得、手植し奉献したと伝えられる老松「天然記念物-井草八幡の松」(高さ約40m)があったが、1973年(昭和48年)に枯れてしまった。現在その樹根の一部が当社回廊に飾られている。

広く長い参道で、五年に一度、流鏑馬の神事が行なわれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

谷保天満宮

160320_0921

やぼてんまんぐう

東日本最古の天満宮。湯島天神、亀戸天神とともに関東三大天神のひとつ。

ご祭神は菅原道真公である。第三子の道武公も祀られている。

160320_0933

何度もお参りしているので、詳細はこちらを参照。

 

ご朱印をお願いしたら、ご朱印帳を見て、当社の専用にしているか尋ねられたので、そうですとお答えしたら、参拝者のなかには専用で8冊目の方がおられるということで、すごいことだなあと思った。

朔日参りでも年12回だから、もちろん、それ以上のペースでお参りしているということだ。熱心な方だな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月13日 (日)

開運札(加紫久利稲荷神社)

160314_1233

加紫久利神社の桜・大蛇しぐれと龍が描かれており、境内摂社の稲荷神社の社名で授与している。

人吉の青井阿蘇神社から、峠を2つ越えて鹿児島に入り、この日最後のお参り先である出水の加紫久利神社(薩摩国二宮)に着いたときは15時半を過ぎてしまった。

社務所の授与所には人影がなかったが、御朱印をいただくために社務所にお声掛けしたら、奥様が出られてご神職は不在だったので帰ることにした。

奥様がちょっと待っててと呼びに行こうとされるので、申し訳ないので結構ですと遠慮したら、どこから来たのか尋ねられたので、北陸から来ました、熊本から車を借りて走ってきましたと言うと、畑仕事で近くにいるからと呼びに行ってくださった。

恐縮して待っていると、戻られたご神職は境内で紫陽花の植栽をされていたとのことだった。

作業の手を止めてしまうことになって益々恐縮したが、近辺にある米ノ津天満宮の存在を教えていただき、そちらの御朱印もいただくことになり、帰りにお参りすることにした。

ようやく願いが叶い参拝できた上、加紫久利の地理や神社について、いろいろお話を伺うことができたので、些少ながら初穂料を少し多めに納めたら、このお札をくださった。

いろいろ教えてくださり、ありがとうございました。よいお参りになりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

米ノ津天満宮

160313_1603

こめのつてんまんぐう。出水市米ノ津町にある。

160313_1604

天満宮なので、ご祭神は菅原道真公(菅公)である。

創建については、天明7年(1787)、島津重豪が参勤交代の年に、9月1日に鹿児島市を出発、4日にこの地に到着したとき、神の霊験を肝に命じ、太宰府天満宮の別当寺に道真公の神像を作ってもらい、1789年4月に新たに神社を建立し、米ノ津天満宮と称した。

160313_1606

境内に牛の像が三体あった。色が塗られている。

 

加紫久利神社のご神職に紹介していただいた。兼務社なのだな。篤姫が江戸に向かう途中に参拝したということで、最後に寄ってお参りした。

本殿の千木が壊れているので、修復しないといけないけど、お金がかかりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

加紫久利神社

160313_1557

かしくりじんじゃ。鹿児島県出水市下鯖町にある。

式内社。薩摩国二宮。

ご祭神は、天照大神、多紀理毘売命

※加紫久利神社社伝によると天照大神の娘とされる。

住吉三神、 応神天皇 神功皇后 また、摂末社として稲荷神が祭られている。

160313_1553

創始年は不明。仁寿元年(851)に官社に列し、貞観2年(860)3月に従五位下から従五位上に昇った。

『延喜式神名帳』では枚聞神社と共に名前が見え、薩摩国の神社として記載のあるただ二つのうちの一つであった。

そのため後世「薩摩二ノ宮」とも言われている(薩摩国は鎌倉時代以後、一宮が2社存在し二宮不詳)。

歴史のある神社であることから、その後この地の支配者となった島津氏の尊崇も厚かった。

明治10年(1877)の西南戦争により全焼し、社殿はおろか歴代伝えた宝物すら失った。

同13年(1880)に社殿は再興されたものの、その後の新田開発などで境内を大きく浸食され、戦後には社殿崩壊の危機にまで瀕したという。

160313_1536

現在の社殿は地元有志の寄付により昭和36年(1961)に再建され、平成元年(1989)に改築されたものである。

社地の森は火災や台風、虫の害などで、何度も消失した。現在は「二千年の杜」と名付け、二千年続くように、明治神宮を参考に植生の多様化を進めるとご神職は仰っていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

青井阿蘇神社

160313_1324

あおいあそじんじゃ。熊本県人吉市にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

地元では「青井さん」と称されている。本殿など5棟の建造物が国宝に指定されている。

160313_1326

ご祭神は、建磐龍命とその后神である阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、両神の御子神である国造速甕玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと)を祀る。

この3神は阿蘇三社とも称される、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の祭神12柱中の3柱である。

近世までは両部神道に基づく神仏習合が行われ、建磐龍命は十一面観音を、阿蘇津媛命は不動明王を、国造速甕玉神は毘沙門天を本地仏とし、神体として仏像を祀っていたが、寛文5年(1665)に唯一神道へ改めてこれを改替した。なお仏形の神像絵は現も神社に保存されている。

160313_1342

創建は、大同元年(806)9月9日に阿蘇神社の神主尾方権助大神惟基が神託により阿蘇神社から阿蘇三社の分霊を当地球磨郡青井郷に祀ったのに始まると伝える。

その後天喜年中(11世紀中半)に再興され、建久9年(1198)に領主として藤原(相良)長頼が当地へ下向した際にも再営して自家の氏神として尊崇、神領216石を寄進する等相良家歴代の篤い崇敬を受け、延徳3年(1491)の同為続による社殿造営を始めとする数度の社殿の造営、修造が行われた。

160313_1335

相良氏は八代衆や球磨衆といった衆中と呼ばれる国人層を家臣団として抱え、その衆議を踏まえて領国経営を行ったが、『八代日記』の記述から当神社で制定前の衆議や制定後の神裁が行われたものと考えられている。相良氏にとって当神社は信仰の対象であり、家臣団を統制する存在でもあった。

近世には青井大明神と称され、相良家20代目に当たる長毎(頼房)は文禄の役での朝鮮出兵に際して当神社へ戦捷を祈願し、帰国後の慶長2年(1597)に当神社を球磨郡内の神社250余社の総社と定め、同6年に大村内の田地1町1,000歩(約4,000坪)を寄進、戦捷祈願の報賽として社殿の大造営を行う等、近世を通じて同氏及び人吉藩による崇敬を受けた。

なお、阿蘇神社の分霊社ではあるが、阿蘇氏(阿蘇神社の大宮司家)と相良氏が、南北朝の内乱期や戦国時代に度々対立したためか、阿蘇神社との関係は薄く、独自の発展をみたという。

明治5年(1872)8月に郷社に列し、昭和10年(1935)11月県社に昇格した。

 

人吉は温泉地でもあり、当社の建造物が国宝指定ということで、たくさんの観光客が訪れていた。観光ツアーにも組み込まれていて、境内では現地のボランティア・ガイドが活躍していた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

八代神社(妙見宮)

160313_1221

やつしろじんじゃ。熊本県八代市妙見町にある。

旧県社。

妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さんと呼ばれる。

上宮、中宮、下宮の三宮からなるが、現在は下宮が本宮である。

福島の相馬妙見、大阪の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つといわれる。

160313_1224

ご祭神は、天之御中主神、国常立尊を祀る。

創建は、延暦14年(795)に横岳頂上に上宮を創祀したことに始める。

永暦元年(1160)、中宮を建立。文治2年(1186)に、後鳥羽天皇の勅願で検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。

明治3年(1870)までは妙見宮と呼ばれていた。

妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。神道と仏教の両部の宮寺で、広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えた。

明治4年(1871)、神仏分離令により天之御中主神、国常立尊を祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社に列した。

160313_1225

妙見祭は、11月22日、23日に開催される秋の例大祭であり、九州三大祭りの一つである。

「八代妙見祭の御幸行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定されている(平成23年3月9日指定)。

八代地方において最大の祭礼行事で、神幸行列は貞享元年(1684)八代城主松井直之の時代に始まり、元禄時代(1688 - 1704)に祭式がほぼ整ったとされている。

御旅所である塩屋八幡宮まで「お下り」され、一泊される。翌日、八代神社まで「お上り」の神幸で、神輿、神主、社僧、鉄砲、神馬、笠鉾、亀蛇、獅子等が行列をともにする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

郡浦神社

160313_1112

こうのうらじんじゃ。熊本県宇城市三角町郡浦にある。

肥後国三宮と伝える。旧郷社。阿蘇四社の一つ。

160313_1115

ご祭神は、蒲智比咩命(かまちひめのみこと)、健磐龍命(たけいわたつのみこと、阿蘇神社主祭神)、速瓶玉命(はやみかたまのみこと、国造神社主祭神)、神武天皇の四柱を祀る。

蒲智比咩命は、国造神社の主祭神速瓶玉命の妃神で、海神の女神、雨宮媛命(あまみやひめのみこと)とされる。

境内の広さは2182坪あり、平安時代初期のものとされる石造の五重塔や、明治9年(1876)に熊本で起こった「神風連の変」において、宇城市三角町大岳山頂で自刃した六烈士ゆかりの石碑、殉国の碑などがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

甲佐神社

160313_1011

こうさじんじゃ。熊本県上益城郡甲佐町にある。

肥後国二宮。旧郷社。阿蘇四社※の一つ。

※阿蘇四社はほかに阿蘇神社(阿蘇市)、郡浦神社(宇城市)、健軍神社(熊本市東区)。

肥後南方の守護神。

もともと鏑崎宮(かぶらざきぐう)と称したが、神功皇后凱旋ののち、甲冑を納められたので甲佐宮と改めたと言われる。

甲佐三宮大明神とも称するのは、一殿に甲佐、二殿に阿蘇、三殿に郡浦の三神を祀るためである。

160313_1013

ご祭神は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子である八井耳玉命(やいみみたまのみこと、甲佐明神)を主祭神とし、健磐龍命、蒲池比咩命(かまちひめのみこと)、神倭磐余彦命(あむやまといわれひこのみこと)、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を配祀する。

八井耳玉命(甲佐明神)は、阿蘇神社の主祭神健磐龍命の子で速瓶玉命の異母弟であると神系図では位置づけられている。他に神武天皇の第二皇子神八井耳命の異母弟説、神八井耳玉命が阿蘇家の祖惟人命説、など様々な説がある。

鎌倉時代の武士の竹崎季長が 『蒙古襲来絵詞』を奉納したことがあり、拝殿内に再現したものがかかっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国造神社(阿蘇市)

160313_0811

こくぞう じんじゃ、くにのみやつこ じんじゃ。熊本県阿蘇市一の宮町手野にある。

延喜式内社。旧県社。旧官幣大社の阿蘇神社の北方に鎮座するため、北宮と称される。

160313_0803

ご祭神は、

速瓶玉命(はやみかたまのみこと):阿蘇神社主祭神健磐龍命の子、阿蘇国造大神(阿蘇神社では十一宮に奉斎)、

雨宮媛命(あまみやひめのみこと): 速瓶玉命の妃、蒲智比咩命(かまちひめのみこと)、海神の女神。郡浦神社主祭神。

高橋神(たかはしのかみ): 速瓶玉命の第二子。

火宮神(ひみみやのかみ):速瓶玉命の第三子。

160313_0805

創建については、延喜式神名帳に肥後国では四座が記されており(健磐竜命神社・現阿蘇神社、阿蘇比咩神社・現阿蘇神社、国造神社、疋野神社)、その四座のうちの一座である。

熊本県内において、最も古い神社の一社である。

『肥後国誌』では、崇神天皇の代に速瓶玉命が肥後国造に任命され、景行天皇18年に、国造神社を修造し祭典を整えたとある。 父親である阿蘇神社の主祭神健磐龍命と共に阿蘇の地を開拓し、農耕・植林などを指導したとされる速瓶玉命(はやみかたまのみこと)を主祭神とし、御妃、御子息の合わせて4柱の神を祀る。

現在の社殿は、寛文12年(1672)、肥後熊本藩第3代藩主細川綱利によって造営された。明治5年県社に列した。

160313_0808

手野の杉。主祭神である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)のお手植えとされてきた。

元々は男杉と女杉の一対であったが、文政年間(1818-1830)の火災で女杉だけ残ったそうだ。

高さ60m、幹囲約12mの巨木であったが、倒れてしまい、こうして幹だけ残してある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月12日 (土)

阿蘇神社

160312_1520

あそじんじゃ。熊本県阿蘇市にある。熊本県北東、阿蘇山の北麓に鎮座する。

式内社(名神大社1社、小社1社)。肥後国一宮。旧官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。

全国に約450社ある阿蘇神社の総本社。また、男成神社、小一領神社、宮原両神社、国造神社なども当社の系統とされる。

160312_1521

古くは「阿蘓神社」とも表記された(現在も銘板が存在する)。古代からの有力氏族であり、中世の戦国期に肥後中部で勢力を誇示していた阿蘇氏と縁の深い神社である。阿蘇氏が現在も大宮司を務める。

160312_1551

全国的にも珍しい横参道で、楼門正面には鳥居がない。写真は楼門に向かって右側から撮ったもの。

参道の南には阿蘇火口、北には国造神社が位置していると言われている。

160312_1533

ご祭神は、以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。

一の神殿(左手、いずれも男神)

一宮:健磐龍命(初代神武天皇の孫という)

三宮:國龍神(二宮の父で、神武天皇の子という)

五宮:彦御子神(一宮の孫)

七宮:新彦神(三宮の子)

九宮:若彦神(七宮の子)

二の神殿(右手、いずれも女神)

二宮:阿蘇都比咩命(一宮の妃)

四宮:比咩御子神(三宮の妃)

六宮:若比咩神(五宮の妃)

八宮:新比咩神(七宮の娘)

十宮:彌比咩神(七宮の妃)

諸神殿(最奥、いずれも男神)

十一宮:國造速瓶玉神(一宮の子、阿蘇国造の祖という)

十二宮:金凝神(一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すという)

その他、全国式内社祭神 3132座

160312_1536

創建は、第7代孝霊天皇9年6月、健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命(阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのに始まると伝える。

阿蘇神社大宮司を世襲しこの地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している。

国史では、「健磐竜命神」および「阿蘇比咩神」に対する神階奉叙の記事が見え、健磐竜命神は天安元年(859)に正二位勲五等、阿蘇比咩神は貞観17年(875)に従三位までそれぞれ昇叙された。

延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では肥後国阿蘇郡に「健磐龍命神社 名神大」および「阿蘇比咩神社」と記載され、健磐龍命神は名神大社に、阿蘇比咩神は式内小社に列している。

中世以降は肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有していたが、豊臣秀吉の九州征伐の際に社領を没収された。

その後、改めて天正15年に300町の社地が寄進され、さらに、領主となった加藤清正、熊本藩主として入国した細川氏によって社領の寄進、社殿の造修が行われた。

明治4年(1871)、国幣中社に列し、明治23年(1890)に官幣中社、大正3年(1941)に官幣大社に昇格した。

160312_1541

160312_1542

東向きに還御門、楼門、御幸門があり、境内には社殿が3棟ある。

日本三大楼門に数えられる楼門は、高さが18mあり、神社では珍しい仏閣の様式で建てられた二層楼山門式である。

願掛け石。拝殿の右手、古代より神石として伝承保存されている。

縁結びの松。 謡曲「高砂の松」に因んだ、同名の松。男性は左から2回、女性は右から2回まわるとご利益があるとされる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

菊池神社

160312_1317

きくちじんじゃ。熊本県菊池市にある。

旧別格官幣社。現在は神社本庁の別表神社。

建武中興十五社のうちの一社。

160312_1326

ご祭神は、 南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏の三代を祀る。

菊池氏は後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。

当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀する。

160312_1325

創建は、慶応4年(1868)に熊本藩から明治新政府の参与に出仕した長岡護美が、菊池氏と加藤清正のために神社を創建する案を建議した。

同年7月18日、太政官政府はこの建言を採択し、熊本藩に両者の祭祀を執行するよう命じた。

そこで、熊本藩は清正のために熊本城内に錦山神社を建て(現加藤神社)、菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建てた。

菊地神社の鎮座祭は明治3年(1870)4月28日に行われ、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした。

明治6年(1873)5月に郷社に列され、8年(1875)7月には県社に昇格した。

しかし、直後の10月24日に楠木正成を祭る楠社(現 湊川神社)が別格官幣社なのに対して、菊池神社が県社では不公平だと白川県が教部省に願い出た。

3年後の明治11年(1878)1月10日に名和神社とともに別格官幣社に列した。あわせて、その時まで配祀されていた武重、武士、武光、武政、武朝の5人に加え、菊池氏に従って戦った一族他家の将士も配祀することになった。

同年6月3日に、菊池武時が戦死した元弘3年3月13日を太陽暦に換算した5月5日を例祭日に定めた。

大正12年(1923)に配祀されていた武重と武光を主神に加えた。

昭和26年(1951)に宗教法人法が公布されたのをうけ、昭和27年(1952)9月13日に宗教法人菊池神社となった。

160312_1336

境内からの眺望。菊池の市街地が見える。

境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されているそうだが、見逃してしまった。こちらも例に違わず、桜の名所である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大宮神社(山鹿市)

160312_1232

おおみやじんじゃ。熊本県山鹿市山鹿に鎮座する神社である。

旧社格は県社。

ご祭神は、景行天皇を主祭神とし、阿蘇十二神を併せ祀る。

160312_1233

160312_1235

神門の天井に恵方盤があった。博多の櫛田神社にもあったな。

160312_1248_2

創建は、第12代景行天皇が筑紫(九州)巡幸の際に、現社地に行宮(あんぐう:仮の御所)を営んだと伝わっており、その後、行宮の跡地に天皇を祀ったことが起こりといわれている。

延久4年(1072)、菊池則隆が阿蘇十二神を勧請して併せ祀り、田地36町歩を寄進した。

山鹿の鎮守として、代々の領主・藩主らをはじめ篤い崇敬を受けてきた。

明治4年(1871)、山鹿神宮と改称した。

昭和15年(1940)、大宮神社と改称し、昭和18年(1943)県社となった。

160312_1238

160312_1239

神域は約1万平方メートルで、八坂神社をはじめとする境内社や奉納された灯籠を保存する燈籠殿、猿田彦石碑群などがある。

160312_1242

山鹿灯籠まつりとして全国的に知られる例祭は、8月15日より17日の未明にかけて奉祝される。景行天皇御到着の折り、濃霧のなか里人が松明をもってお迎えしたのが起源で、文禄年間(1592−1596)に松明を紙製の灯籠に代えて奉献することになったといわれる。

燈籠殿という展示施設に入館し、拝見した(200円)。

160312_1244

燈籠制作の技術を用いて、神社をモチーフにして制作し、奉納されている。

写真は静岡浅間神社。たしかにあの拝殿は作りがいがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

健軍神社

160312_1134

けんぐんじんじゃ。熊本県熊本市東区にある。

旧郷社。熊本市内で最古の神社と言われている。阿蘇四社の一つ。

※阿蘇四社はほかに阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(こうさじんじゃ、甲佐町)、郡浦神社(こうのうらじんじゃ、宇城市)がある。

160312_1135

ご祭神は、健磐龍命、天御中主神、仲津彦神、仲津姫神、神渟名川耳命(綏靖天皇)、阿蘇津姫命、草部吉見神、速甕玉命、彦御子命、比咩御子命、新彦命、若比咩命、若比古命、新比売命、弥比咩命等を祀る。

このうち天御中主神、仲津彦神、仲津姫神の三柱以外は全て阿蘇神社のご祭神であり、もともとは境内にある国造社の神、火(肥)国造 の祖である健緒組(たけおくみ。健緒純にも作る)と見る説もある。

健緒組は『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によれば景行天皇の時代に肥(火)君(ひのきみ)の姓を賜ったといい、『国造本紀』によれば崇神天皇朝に火国造に定められたという。

160312_1136

創建は、社伝によれば欽明天皇19年(558)に阿蘇神社の大宮司が同神社を勧請して創祀し、異賊征伐の為に社号を「健軍」と称した。

のちに阿蘇四社の一つとして阿蘇神社の別宮とされた。

初め「健軍宮(たけみやぐう)」や健軍村竹宮(たけみや)と呼ばれ、または十二社大明神とも称せられて、健軍荘(たけみやしょう)(現在の日赤病院周辺や小峰や新外、江津湖周辺の広い地域)の産土神社であった。

明治6年(1873)に郷社に列し、昭和以降「たけみや」が「けんぐん」と音読されるようになり、地域名も託麻郡健軍村から熊本市健軍町となった。

 

参拝した日はお祓いを受ける参拝客で賑わっていた。たくさんの車がお祓いを待っていて、ご神職も大忙しのようだった。ひとびとの崇敬を集めていることがわかった。

駐車場、境内に係員を数名つけて対処されていた。奉賛会の方々だろうか。

こちらはご朱印の初穂料を取っていないということなので、お賽銭に足しておいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

出水神社(熊本市)

160312_1054

いみずじんじゃ。熊本県熊本市中央区の水前寺成趣園内にある。

旧県社。

熊本藩歴代藩主を祀る神社として、明治時代にかつての家臣らによって創建された。

160312_1058

ご祭神は、熊本藩細川氏の藩祖細川忠利卿とその祖父藤孝卿(幽斎)、父忠興卿、6代藩主重賢卿を主祭神とする。

さらにそれ以外の細川氏歴代藩主(光尚朝臣(2代)、綱利朝臣(3代)、宣紀朝臣(4代)、宗孝朝臣(5代)、治年朝臣(7代)、斉茲朝臣(8代)、斉樹朝臣(9代)、斉護朝臣(10代)、韶邦朝臣(11代)、護久朝臣(12代)の10代)、及び忠興卿室の玉(通称ガラシャ)の11柱を配祀する。

160312_1111

創建は、明治11年(1878)10月7日、旧藩士松井章之らの請願により藩主別邸の跡である成趣園(水前寺成趣園)内に、成趣園全域を社地として創建された。

翌明治12年5月13日に県社に列した。

熊本の街はその前年までの西南戦争により焼け野原となっており、その復興にあたり人心の寄り所とするためであった。

社名は水前寺成趣園の池の湧水に因むもので、社紋は細川氏の家紋と同じ細川九曜紋。

敷地内には能楽殿があり、夏祭で奉納される薪能は日本で5番目に古い。

160312_1103

下調べが不足していて少々迂闊であったが、水前寺公園は有名な観光地なので、近辺に無料の駐車場が見つからず、有料駐車場に停めた(500円)。さらに水前寺公園への入園料(400円)が必要である。

参拝した日は神前結婚式が執り行われていた。晴天吉日である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

藤崎八旛宮

160312_1008

ふじさきはちまんぐう。熊本県熊本市中央区にある。

肥後国三宮。旧国幣小社。熊本市域の総鎮守。

ご祭神は、八幡宮なので、応神天皇を主祭神とし、神功皇后・住吉三神を相殿に祀る。

社名は、天文11年(1548)の後奈良天皇宸筆の勅額に基づき、「幡」ではなく「旛」と表記している。

160312_1010

創建は、承平5年(935)、敕願により藤原純友の乱の追討と九州鎮護のために、国府の所在地であった宮崎庄の茶臼山に石清水八幡宮から勧請を受けたことによる。九州の石清水五所別宮の一社である。

鎮座のとき、勅使が馬の鞭としていた石清水の藤の枝を地面に刺したところ、芽を吹き枝葉が生えたので、「藤崎」を社名としたという伝承がある。

160312_1014

国府八幡宮として国司や朝廷の崇敬を受けた。鎌倉時代以降は歴代領主の崇敬を受け、江戸時代には熊本城の鎮守社とされた。

明治10年(1877)、西南戦争で社殿を焼失し、現社地に移転して復興した。大正4年(1915)国幣小社に列格した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

御朱印帳(北岡神社)

160314_1231

高橋稲荷神社でいま使っている宇佐神宮の御朱印帳の片面を使いきったので、つぎの北岡神社で新しい御朱印帳を入手した。

少し大きめのサイズ(12cm×18cm)を使っていて、こちらの神社では同サイズのオリジナルの御朱印帳も出しておられた。

御朱印込みで初穂料2千円は結構な額だけど、ちりめんを使った装丁は美しく、品のよい意匠なので申し分ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

北岡神社

160312_0927

きたおかじんじゃ。熊本県熊本市西区にある。

旧県社。

祇園宮とも称され、熊本市域において、藤崎八旛宮と並ぶ由緒を持つ古社である。

160312_0929

ご祭神は、健速須盞嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子神(天忍穂耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市杵島比売命、多岐都比売命)

160312_0933

創建は、社伝によれば、承平4年(934)、藤原保昌が肥後国司として下向の折りに、鎮護のため京都の祇園社(八坂神社)の分霊を湯ノ原(現 熊本市西区二本木)に勧請したのが創祀であるという。当初は祇園宮と称した。

天元2年(979)には、花岡山へ遷宮した。佐々成政領国の頃に衰退し、加藤清正により復旧され、のちの細川家代々の藩主より厚い崇敬を受けた。

正保4年(1647)、現在の社地である北岡に遷座した。

明治元年(1868)、北岡宮と改め、さらに明治4年(1872)に北岡神社に改称した。明治5年(1873)、県社に列した。

また、明治10年(1877)の西南戦争の際には、薩摩軍の本営が一時境内に置かれた。

160312_0946

鳥居をくぐり石段を上がる途中、両側に厄除けの夫婦楠がある。樹齢約一千年の一対の楠であり、特に厄除開運、夫婦円満、縁結びの御利益を授かると古くより伝わっている。

参拝した日も神前結婚式の執り行われていた。晴天でお日柄の良い日であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高橋稲荷神社

160312_0833

たかはしいなりじんじゃ。熊本県熊本市西区にある。

九州三稲荷の一つ、日本五大稲荷の一つとされている。

阿蘇神社、出水神社とともに熊本県三大神社の一つとされている。

現在は神社本庁の別表神社。

160312_0841

ご祭神はお稲荷様なので、宇迦之御魂神を祀る。

創建は、明応5年(1496)、隈本城の初代城主鹿子木親員が支城として稲荷山山頂に上代城を築いた際、城内鎮守のため京都の伏見稲荷神社から稲荷大明神を勧請したことに始まる。

160312_0858

天文10年(1541)上代城落城の際に稲荷神社もまた焼失した。

江戸時代に入り、熊本藩主細川氏の菩提寺である海蔵寺の首座義本氏が夢で稲荷神社再興の啓示を受け、寛文元年(1661)、現在地である稲荷山中腹に社殿を再建し遷座した。

以降、熊本藩主細川氏の崇敬を受けた。

明治維新の際に高橋稲荷神社に改称した。

戦後は神社本庁に参加し、昭和41年(1966)7月1日にその別表神社とされた。

2月初午の初午大祭には、多くの人が参詣するそうだ。

160312_0856

境内からの眺望。街並みが見渡せる。

大きな鳥居が二つあって、どちらの方角が参道なのか、わからなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月11日 (金)

手拭(光雲神社)

160314_1404

光雲神社の西公園鎮座百年を記念して制作された手拭があった。千円。

家紋、如水・長政親子の兜をデザイン化したもの。

遷座したのは明治42年(1909)だから、平成21年(2009)がちょうど100年後になるけど、手部食いの日付は2年早い。

NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』は平成26年(2014)放送だから、それに当てたわけでもないだろうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

光雲神社

160311_1434

てるもじんじゃ。福岡県福岡市中央区西公園にある。

旧県社。現在は神社本庁の別表神社。

ご祭神は、筑前福岡藩祖・黒田孝高(龍院殿、如水)と、その子で初代筑前福岡藩主・黒田長政(興院殿)を祀る。

社名は両神の法名から光と雲の一字ずつをとったものである。

160311_1441

創建は、明和6年(1766)、6代目福岡藩主の黒田継高が、長政を「武威円徳聖照権現」として福岡城二の丸、祈念櫓下に祠を創建し、祀ったことに始まる。

次いで、黒田孝高を「水鏡権現」として合祀した。

明治4年(1871)、廃藩置県により黒田家が東京に移転するにあたって、有志が11代藩主長溥に懇願し、福岡城内の祠堂より小烏吉祥院跡に新たに祠堂を建立した。額は黒田家15代当主、黒田長久の揮毫。

明治8年(1875)に県社に列格した。

明治42年(1909年)に現在地の西公園に再移転、遷座した。この地は元々、二代福岡藩主、黒田忠之が建立した徳川家康を祀る東照宮があった。

摂社、堅盤神社には、四神として黒田重隆、黒田職隆、黒田忠之、醍醐冬香夫人厚姫が祀られている。

160311_1448

境内には、福岡藩士で黒田二十四騎の一人・母里友信(太兵衛)の銅像があり、銅像下部には母里をモデルとした民謡「黒田節」の歌詞が刻まれている。

160311_1450

また、長政が愛用した水牛の兜の像もある。

武将黒田長政、父の如水を祀った歴史の新しい神社である。NHK大河ドラマで如水、長政親子が描かれ、人気だったので、一時期多くの参拝者を集めたらしい。

西公園鎮座100年記念(2009年ということか)の手拭があったので、分けていただいた(1000円)。

 

西公園は小高い山の上にあるので、地下鉄空港線の大濠公園駅からタクシーにしようかと思ったが、時間に余裕があるので、てくてく歩いていった。

西公園は桜の名所百選に認定されていて、観光地的な色彩が強い。幕末の志士である平野國臣の像があったので、興味深く見学した。

境内に上がる石段の両脇にしだれ桜がたくさんあったが、お参りした日は寒く、まだ季節ではないようだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

警固神社

160311_1355

けごじんじゃ。福岡県福岡市中央区にある。

旧県社。

160311_1348

ご祭神は、本殿に警固大神である八十禍津日神(やおまがつひのかみ)、神直毘神(かんなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)を祀り、 相殿に建角身神(たけつぬみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)を祀る。

創建は、社伝では神功皇后による三韓征伐の際、皇后の船団を守護し勝利に導いた警固大神を福崎(現在の福岡城本丸周辺)の地に祀ったのが始まりとされる。

由緒書きによれば、古くは筑前国那珂郡岩戸郷の上警固村に鎮座されていたと伝わる。

仲哀天皇九年庚辰(200)に福崎(現 福岡城本丸跡周辺)の筑紫石辺りに警固大神が化現され、また神功皇后が三韓親征の際に警固大神がその船団を守護し勝利に導いたと云われる。

神功皇后はその報恩に最初に化現された福崎山(現 鴻臚館跡)に警固三柱の大神を祀った。

160311_1345

慶長6年(1601)、福岡藩初代藩主である主黒田長政が福崎山に福岡城を築城するため、当社をいったん下警固村(現 福岡市中央区天神周辺)山上の小烏神社に合祀した。

慶長13年(1608)に黒田長政によって現在の場所に社殿が造営された。元和7年(1621)に黒田長政により神領八十石が奉納された。二代藩主黒田忠之の産土神としても崇められ、代々藩主より崇敬され、種々の奉納を受けた。

明治5年(1872)に村社に指定され、大正5年(1916)に県社に列格した。

160311_1357

社名及び周辺の地名である『警固』はかつて鴻臚館近辺にあった太宰府政庁の防衛施設『警固所』に由来する。

福岡の商業中心地、繁華街である天神にある福岡三越の裏手に警固公園があり、その一角が社地になっている。

神紋が独特なので、今度お参りしたときに訊いてみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

住吉神社(福岡市)

160311_1319

すみよしじんじゃ。福岡県福岡市博多区住吉にある。

式内社(名神大社)、筑前国一宮。旧官幣小社、現在は神社本庁の別表神社。

大阪の住吉大社、下関の住吉神社とともに三大住吉の一つ。

ご祭神は次の5柱で、住吉五所大神とも総称される。

主祭神に、住吉三神(底筒男命(そこつつのおのみこと) 、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと))を祀る。

天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)、神功皇后 (じんぐうこうごう)を配祀する。

160311_1316

創建については、社記『筑前国住吉大明神御縁起』で、この住吉神社が鎮座する地を住吉神の生まれた阿波岐原(あはきはら、檍原)の古跡に比定していることから、『住吉神社略誌』では上古よりの鎮座として「住吉本社」または「日本第一の住吉宮」であるとし、全国2千数百社ある住吉神社の始源であると主張している。

中世の絵図の『博多古図』では、当社の鎮座地が地形的には那珂川河口に突き出た岬の上に位置する様子が見られる。当地は航海守護神の祭祀地として適地であったと考えられている。

また『和名抄』では筑前国那珂郡に「海部郷」の記載があるほか、境内からは弥生時代の銅戈・銅鉾(銅矛)が出土したとも伝えられることから、当地が古くから海人族にとっての聖地であったとする説もある。

『筑前国続風土記拾遺』では、当社の元地を現人神社(筑紫郡那珂川町、位置)とする伝承を載せるが、否定的な見解が強い。

『式内社調査報告』では、住吉神社と現人神社の中間に奴国(須玖岡本遺跡など)が展開していたことから、那珂川の上流・下流に位置する神社として両社の祭祀が結ばれていた可能性が指摘されている。

全国の住吉神を祀る神社については、『住吉大社神代記』(平安時代前期頃の成立?)や『延喜式』神名帳(927年成立)において、摂津国・播磨国・長門国・筑前国・壱岐国・対馬国にそれぞれ住吉神社の記載があることから、当社含めこれらの社には朝鮮航路の要所に配置する意図があったとする説もある。

この中で、住吉神は神功皇后の征討伝承と不可分であることから国家的な航海守護神に位置づけられていたとし、5世紀の倭の五王の頃からヤマト王権の軍事・外交に深く関わっていたと指摘される。

160311_1315

文献上の初見は天平9年(737)で、神宮などとともに「筑紫住吉」に新羅の無礼の報告と奉幣がなされた。『新抄格勅符抄』によれば、大同元年(806)には「住吉神」に神封36戸が筑前国から充てられている。

承和14年(847)には僧円仁が、仁寿2年(852)には僧円珍が入唐にあたって経典の読誦を行なっている。

国史では、貞観元年(859)に筑前国の「住吉神」の神階が無位から従五位下に昇叙されており、元慶2年(878)には「新羅凶賊」を告げる香椎宮の託宣を受けて朝廷の奉幣に預かっている。

延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では、筑前国那珂郡に「住吉神社三座 並名神大」と記載され、3座が名神大社に列している。

また『住吉大社神代記』では、「筑前国那珂郡住吉社三前」や「筑前国那珂郡住吉荒魂社三前」の表記で記載されている。寛

仁元年(1019)には後一条天皇の一代一度の奉幣に預かったほか、元永2年(1119)にも住吉社遷宮の日時勘申がなされており、国家神的性格は平安時代末期にも継続する。

神職は、『類聚符宣抄』の天元2年(979)太政官符によると大宮司があったといい、『吾妻鏡』には源頼朝にも仕えた神官として佐伯氏の名が見え、その後は佐伯氏末裔の横田氏が代々担ったという。

社領は文献に「住吉庄」と見え、その所属は後白河院領、宣陽門院領、伏見院領、天皇家領と変遷しながら継続した。

中世以降は建武元年(1334)の文書を初見として筑前国の一宮の位置づけにあったとされる。文献では筑前国の一宮として筥崎宮(福岡市東区箱崎)も見られるが、中世以前の史料で一宮の記述が確認されているのは筑前国で住吉神社のみである。

この頃の竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』では、住吉神社の朱塗りの鳥居が描かれている。

文明12年(1480)には連歌師の宗祇が参詣しており、『筑紫道記』に戦乱による住吉神社荒廃の様子を記している。

戦国時代には、当社に伝わる古文書を山口の大内義隆のもとに上進していたところ、天文20年(1551)の大寧寺の変に巻き込まれその一切を散逸したという。

160311_1309

江戸時代に福岡藩主となった黒田長政が元和9年(1623)に白銀2,000枚を下行して社殿を再興し、そのときの本殿が現在まで使用されている。その建築様式は住吉造(すみよしづくり)と称される古代日本の独特なもので、国の重要文化財に指定されている。

天和3年(1683)には3代藩主黒田光之が社領として30石を寄せ、文化13年(1816)には10代藩主黒田斉清が20石を加増したことにより計50石を有した。この頃の別当寺は松花山円福寺であった。

明治維新後、明治5年(1872)に県社に列し、大正14年(1925)に官幣小社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

 

2013年12月についで、二度目のお参りになった。時間があったので、博多駅からてくてく歩いて行ったら、結構近かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

諏訪神社(長崎市)

160311_0844

ちんぜいたいしゃすわじんじゃ。長崎県長崎市にある。

現在の正式名称は諏訪神社。鎮西大社は通称。

旧国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

地元では「お諏訪さま」、「おすわさん」と呼ばれる。

長崎くんち(例祭:10月7日−9日)が有名。

160311_0850

ご祭神は、

主祭神に、諏訪大神(建御名方神、八坂刀売神)。

相殿神に、森崎大神(伊邪那岐神、伊邪那美神)、住吉大神(住吉三神:表筒之男神、中筒之男神、底筒之男神)。

160311_0852

弘治年間より長崎に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社が起源。

弘治元年(1555)に、長崎織部亮為英(第14代長崎甚左衛門純景の弟)が京都の諏訪神社の分霊を、現在の風頭山の麓に奉祀したのが始まりという説と、東松浦郡浜玉町の諏訪神社を勧請した説がある。

戦国時代には当地はキリスト教徒の支配地となり、当社を含めて領地内の社寺は全て破壊された。

江戸時代初めの寛永2年(1625)、長崎奉行の長谷川権六や長崎代官の末次平蔵の支援によって松浦一族で唐津の修験者であった初代宮司青木賢清(かたきよ)が、円山(現在の松の森天満宮の鎮座地)に三社を再興(諏訪・森崎・住吉の三神を合祀)し、長崎の産土神とした。

この青木賢清はキリシタンから「天狗(=悪魔)」と罵られていたと云われる。修験者だったので山伏の格好でもしていたからであろうか。

社殿の建設に当たってはキリシタン教徒の妨害がひどかったそうだが、人夫を大村から招くなどし、苦心の末、一宇(一棟)の小社を建立した。

正保4年(1641)に幕府より現在地に社地を寄進され、慶安4年(1651)に遷座した。

安政4年(1857)9月に火災により焼失したが、孝明天皇の勅諚により明治元年(1868)に再興した。

明治3年(1870)10月17日、官命により氏子名簿を作り長崎県に通達し、各氏子には氏子証札を授与。長崎(長崎港78町、長崎村13郷)の住民がみな諏訪神社の氏子となった。

明治4年(1872)7月、県社に列した。明治14年(1881)6月に準国弊社、明治28年(1895)7月に国幣小社に昇格。大正4年(1915)11月、国幣中社に昇格。

長崎くんちの奉納は、寛永11年(1634)に丸山町・寄合町の両町が踊りを奉納したことが始まりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »