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2016年2月28日 (日)

秋葉山本宮秋葉神社 上社

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あきはさんほんぐうあきばじんじゃ かみしゃ

静岡県浜松市天竜区春野町領家にある。赤石山脈の南端に位置する秋葉山(866m)の山頂付近にある神社。

日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下で約800社)、秋葉大権現、秋葉寺の起源となった神社。

火防(ひぶせ)の神様として知られているが、秋葉大権現のご利益として『東海道名所図会』には 「第一には弓箭刀杖の横難を免れ、第二には火災焼亡の危急を免れ、第三には洪水沈没の免れさせたまふ」とある。

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ご祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。

秋葉山に鎮まる神で、秋葉大神(あきはのおおかみ)とも称される。

江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社(あきはごんげんのやしろ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の山であった。寺号の別称として古くはを霊雲院(りょううんいん)と称した。

秋葉大権現の正体については諸説ある。

秋里籬島『東海道名所図会』(寛政9(1797)年成立)では、

秋葉山大権現(本堂の側にあり当山鎮守とす)  祭神大己貴命(或曰式内小國神社)  三尺坊(秋葉同社に祭る当山護神とす)

と、三尺坊とは異なる鎮守神としている。

僧侶の編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2(1717)年)では三尺坊を秋葉権現であるとしている。

鎮守と三尺坊は混淆され、人々は秋葉大権現や単に秋葉山などと称し信仰された。三尺坊には異説も多く、秋葉大権現・三尺坊の由来は定かではないところがあるらしい。

一方、上記とは違う説もある。

内山真龍(賀茂真淵の門人)は『遠江国風土記傳』(寛政11年(1799)成立)で『日本三大実録』に記載された「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」の後身であるとの説を唱えているという。

三代実録に曰く「貞観十六年五月十日、遠江国正六位上岐氣保神に従五位下を授く」、と、按ずるに倭名鈔に岐氣は山香郷の郷名なり、保は火なり、此山岐氣の保神社の地に当る、而して火防神と称するか

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創建時期には諸説あるが、上古より神体山・霊山として仰がれて来た。

社伝では和銅2年(709)に初めて社殿が建立された。伝承では山が鳴動し火が燃え上がったため、元明天皇より

あなたふと 秋葉の山にまし坐せる この日の本の 火防ぎの神

と御製を賜り、社殿を建立したという。

社殿建立に関連して、地元の春野町には浪小僧の伝説がある。社殿建立時に人手が不足し、藁で人形を作り祈ったところ、人形に魂が宿り一緒になって働いたため予定より早く完成した。そこで感謝して川に流したところ、浪の音で風雨の災害を知らせてくれるようになったというものである。

時代が進むにつれ、仏教や修験道が入り、神仏習合の霊山として発展した。

江戸時代に僧侶が編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」などでは行基開山説が説かれ、大宝元年(701)に寺を開いたとされる。平安時代初期、信濃国戸隠の出身で、越後国栃尾の蔵王権現(飯綱山信仰に由来)などで修行した三尺坊という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。

秋葉の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から賜った御製の中に

ゆく雲の いるべの空や 遠つあふみ 秋葉の山に 色つく見えし

とあったことから秋葉山と呼ばれるようになったと社伝(修験の伝承)に謳われる一方、「行基が秋に開山したことによる」、「焼畑に由来する」、「蝦蟇の背に秋葉の文字が浮かび上がった」(「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」)などの説もある。

戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康と関係のあった可睡斎の禅僧茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げていった。

秋葉山には禰宜・僧侶(曹洞宗)・修験(当山派)の三者が奉仕し、別当は僧侶が務めた。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、修験も十七坊(時期により三十六坊)あったという。

徳川綱吉の治世の頃から、秋葉大権現は神道、仏教および修験道が混淆した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。

特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯(秋葉灯篭)が建てられた。

また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた。 龍燈(龍頭)と呼ばれる祠を兼ねた特殊な常夜燈があり、そこが町内・講中の信仰の場となった。現在でも町内で神符を受けて常夜燈に祀る地域は多い。

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明治になり、神仏分離令(明治元年、1868)、修験宗廃止令(明治5年、1872)ににより、神仏分離が行なわれた。

しかし、秋葉権現が神仏いずれかという神学論争に加え、山内の修験派と僧派の対立もあり、その決着が容易につかなかった。

明治5年(1872)、教部省は秋葉権現を三尺坊とは異なる鎮守と判断し、更に修験の家伝に基づき祭神名を火之迦具土大神であるとした。秋葉山を神道の秋葉大権現と仏教の秋葉寺に分離し、更に秋葉大権現を秋葉神社と改称した。

明治6年(1873)、秋葉寺は廃寺となる。神仏分離のためでなく、無住無檀の状況に当時の社寺に関する法令が適用された結果であった。

秋葉寺の廃寺に伴い、三尺坊は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座、宝物什物も移管された。全国各地の分社もその地の事情により神社または寺となった。

明治6年に県社に列格。

昭和18年(1943)、山頂(上社)が山麓から発生した山火事の類焼により本殿東側の山門を除く建物全てを焼失した。

戦中戦後は再建が容易ではなく、山麓に下社を造営し、祭祀を継続した。

戦後、社格制度がなくなる中、全国の秋葉神社の本宮であることを示すため、秋葉山本宮秋葉神社と改称した。

昭和61年(1986)、現在の山上の社殿が再建され、名実共に秋葉山本宮秋葉神社として再興を果たした。相前後して山頂に通じる林道も整備されている。

再建は喜ぶべきことだが、古い建物がなくなってしまったことは残念だ。

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境内からの眺望。金色の鳥居は幸福の鳥居と呼ばれる。

天気がよければ遠州灘が望めるそうだが、参拝した日は霞んでいて、よく見えなかった。

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