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2016年2月 6日 (土)

阿倍野神社

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あべのじんじゃ。大阪市阿倍野区北畠にある。

建武中興十五社。旧別格官幣社。

ご祭神は、南朝方について各地を転戦した北畠顕家(きたばたけあきいえ)と、その父の親房(ちかふさ)を祀っている。

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境内の北畠顕家像。

北畠顕家は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将で、『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男である。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。

建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。

やがて任地に戻ったが、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。

以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。

明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。

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創建については。延元3年(1338)に顕家が足利方に敗れて亡くなったと伝承される地に、明治8年(1875年)、地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのに始まる。

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以下の建立までの経緯には当時の神社創建のやり取りが垣間見える。

明治11年(1878年)2月27日、東城兎幾雄・松本楚文ら15人が東成郡阿部野村にある北畠顕家の墓を修繕し、社殿を造営したいと願い出た。大阪府は、建物と境内の面積、創建後の維持の方法、神官の受け持ちを定め、社地と墓地を区分した詳細絵図を添えてもう一度願い出るようにと答えた。

請願者は400円を用意し、天王寺村内の土地の購入計画を立てた。再提出を受けた大阪府は、願いの通りにするよう請願書を添えて内務省に伺を出した。内務省は神社創建は請願通り、墓は民間に任せず官費で記念碑を建てるべきと判断し、それが9月21日に太政官政府の決定として下されたが、この決定から創建まではなお曲折があった。

大阪府は、北畠顕家の忠誠は楠木正成・新田義貞・名和長年・菊池武時らと同じだから、顕家を祭る神社にもしかるべき社格を定めるべきではないか、という内容の伺を同じ年の11月20日に内務省に出した。

内務省は3年後の明治14年(1881)11月16日に北畠顕家と北畠親房の二人を祭神とする別格官幣社の阿部野神社を阿部野村に創建する方針を固め、それが明治15年(1882)1月24日に太政官の正式決定となった。これにより、社格と名称が定まったが、墓所に記念碑をたてる案は取り止めになった。

一方、大阪で創建を進めていた有志は、参拝に便利な天王寺村字天下茶屋に神社を建てるつもりで寄付金を集めて土地の購入に着手していたので、阿部野村に建てる決定を知り、東城ら12人は、土地を寄付するので社殿建築を有志に任せてほしいと3月22日に大阪府知事建野郷三に申し入れた。

その後、天下茶屋の予定地は民家のそばで低湿だとわかり、近くの丘に変えることを有志のうちで議決し、6月2日に伊藤祐暉ら6名が大阪府知事に両地の図面を差し出した。大阪府も実地検分の上同意し、住吉郡住吉村藪山への変更を内務省に上申した。

翌明治16年(1883)、内務省は阿部野神社の宮司と東京で面談した上で、人民の願い通りにするのがよかろうと賛成し、3月7日に太政官が変更を決定した。

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摂社・末社に、御魂振之宮、勲之宮、祖霊社、旗上稲荷社、土宮、旗上芸能稲荷社がある。また、お百度参りの石が各所にあった。

境内西側に大きな鳥居があったが、門は閉まっていた。祭事のときに使うのだろう。上の稲荷社のところから境内に入れるようになっていた。

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