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2016年2月

2016年2月28日 (日)

天狗おみくじ(秋葉山本宮秋葉神社)

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丸めたおみくじを口にくわえたタイプ。と思ったら、くわえてないな。。。500円。

おみくじの結果は吉であった。最近のイベントに関係するテーマでは、

転居 よくない

就職 近くにあり

旅行 同行者選べ

だそうです。

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秋葉山本宮秋葉神社 上社

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あきはさんほんぐうあきばじんじゃ かみしゃ

静岡県浜松市天竜区春野町領家にある。赤石山脈の南端に位置する秋葉山(866m)の山頂付近にある神社。

日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下で約800社)、秋葉大権現、秋葉寺の起源となった神社。

火防(ひぶせ)の神様として知られているが、秋葉大権現のご利益として『東海道名所図会』には 「第一には弓箭刀杖の横難を免れ、第二には火災焼亡の危急を免れ、第三には洪水沈没の免れさせたまふ」とある。

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ご祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。

秋葉山に鎮まる神で、秋葉大神(あきはのおおかみ)とも称される。

江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社(あきはごんげんのやしろ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の山であった。寺号の別称として古くはを霊雲院(りょううんいん)と称した。

秋葉大権現の正体については諸説ある。

秋里籬島『東海道名所図会』(寛政9(1797)年成立)では、

秋葉山大権現(本堂の側にあり当山鎮守とす)  祭神大己貴命(或曰式内小國神社)  三尺坊(秋葉同社に祭る当山護神とす)

と、三尺坊とは異なる鎮守神としている。

僧侶の編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2(1717)年)では三尺坊を秋葉権現であるとしている。

鎮守と三尺坊は混淆され、人々は秋葉大権現や単に秋葉山などと称し信仰された。三尺坊には異説も多く、秋葉大権現・三尺坊の由来は定かではないところがあるらしい。

一方、上記とは違う説もある。

内山真龍(賀茂真淵の門人)は『遠江国風土記傳』(寛政11年(1799)成立)で『日本三大実録』に記載された「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」の後身であるとの説を唱えているという。

三代実録に曰く「貞観十六年五月十日、遠江国正六位上岐氣保神に従五位下を授く」、と、按ずるに倭名鈔に岐氣は山香郷の郷名なり、保は火なり、此山岐氣の保神社の地に当る、而して火防神と称するか

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創建時期には諸説あるが、上古より神体山・霊山として仰がれて来た。

社伝では和銅2年(709)に初めて社殿が建立された。伝承では山が鳴動し火が燃え上がったため、元明天皇より

あなたふと 秋葉の山にまし坐せる この日の本の 火防ぎの神

と御製を賜り、社殿を建立したという。

社殿建立に関連して、地元の春野町には浪小僧の伝説がある。社殿建立時に人手が不足し、藁で人形を作り祈ったところ、人形に魂が宿り一緒になって働いたため予定より早く完成した。そこで感謝して川に流したところ、浪の音で風雨の災害を知らせてくれるようになったというものである。

時代が進むにつれ、仏教や修験道が入り、神仏習合の霊山として発展した。

江戸時代に僧侶が編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」などでは行基開山説が説かれ、大宝元年(701)に寺を開いたとされる。平安時代初期、信濃国戸隠の出身で、越後国栃尾の蔵王権現(飯綱山信仰に由来)などで修行した三尺坊という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。

秋葉の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から賜った御製の中に

ゆく雲の いるべの空や 遠つあふみ 秋葉の山に 色つく見えし

とあったことから秋葉山と呼ばれるようになったと社伝(修験の伝承)に謳われる一方、「行基が秋に開山したことによる」、「焼畑に由来する」、「蝦蟇の背に秋葉の文字が浮かび上がった」(「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」)などの説もある。

戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康と関係のあった可睡斎の禅僧茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げていった。

秋葉山には禰宜・僧侶(曹洞宗)・修験(当山派)の三者が奉仕し、別当は僧侶が務めた。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、修験も十七坊(時期により三十六坊)あったという。

徳川綱吉の治世の頃から、秋葉大権現は神道、仏教および修験道が混淆した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。

特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯(秋葉灯篭)が建てられた。

また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた。 龍燈(龍頭)と呼ばれる祠を兼ねた特殊な常夜燈があり、そこが町内・講中の信仰の場となった。現在でも町内で神符を受けて常夜燈に祀る地域は多い。

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明治になり、神仏分離令(明治元年、1868)、修験宗廃止令(明治5年、1872)ににより、神仏分離が行なわれた。

しかし、秋葉権現が神仏いずれかという神学論争に加え、山内の修験派と僧派の対立もあり、その決着が容易につかなかった。

明治5年(1872)、教部省は秋葉権現を三尺坊とは異なる鎮守と判断し、更に修験の家伝に基づき祭神名を火之迦具土大神であるとした。秋葉山を神道の秋葉大権現と仏教の秋葉寺に分離し、更に秋葉大権現を秋葉神社と改称した。

明治6年(1873)、秋葉寺は廃寺となる。神仏分離のためでなく、無住無檀の状況に当時の社寺に関する法令が適用された結果であった。

秋葉寺の廃寺に伴い、三尺坊は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座、宝物什物も移管された。全国各地の分社もその地の事情により神社または寺となった。

明治6年に県社に列格。

昭和18年(1943)、山頂(上社)が山麓から発生した山火事の類焼により本殿東側の山門を除く建物全てを焼失した。

戦中戦後は再建が容易ではなく、山麓に下社を造営し、祭祀を継続した。

戦後、社格制度がなくなる中、全国の秋葉神社の本宮であることを示すため、秋葉山本宮秋葉神社と改称した。

昭和61年(1986)、現在の山上の社殿が再建され、名実共に秋葉山本宮秋葉神社として再興を果たした。相前後して山頂に通じる林道も整備されている。

再建は喜ぶべきことだが、古い建物がなくなってしまったことは残念だ。

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境内からの眺望。金色の鳥居は幸福の鳥居と呼ばれる。

天気がよければ遠州灘が望めるそうだが、参拝した日は霞んでいて、よく見えなかった。

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秋葉山本宮秋葉神社 下社

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あきはさんほんぐうあきばじんじゃ しもしゃ

静岡県浜松市天竜区春野町領家にある。赤石山脈の南端に位置する秋葉山(866m)の麓にある神社。

日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、事実上の起源となった神社。

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ご祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。

秋葉山に鎮まる神で「秋葉大神」(あきはのおおかみ)とも称される。

江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社(あきはごんげんのやしろ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の山であった。

詳細は上社の記事を参照。

昭和18年(1943)、山麓から発生した山火事の類焼により山頂上社の本殿東側の山門を除く建物全てを焼失した。戦中戦後は再建が容易ではなく、山麓にこの下社を造営し祭祀を継続した。

現在の山上の社殿が再建されたのは、昭和61年(1986)のことである。

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伊豆山神社

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いずさんじんじゃ。静岡県熱海市伊豆山上野地にある。

全国各地の伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格の神社。

旧国幣小社。現在は神社庁の別表神社。

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ご祭紳は、

伊豆山神(天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)

拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと)

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

を祀る。

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創建の年代は不詳。社伝によれば孝昭天皇の時代(紀元前5世紀~紀元前4世紀)とされる。

古くは以下の名で呼ばれた。

伊豆大権現(いずだいごんげん)

伊豆御宮(いずおんみや)

伊豆山(いずさん) 走湯大権現(そうとうだいごんげん)

※麓の海岸に点在した温泉・間歇泉に由来し、推古天皇3年(594)に朝廷から贈られた名とされる)

走湯山(そうとうさん)

当初は日金山(ひがねさん)の山上にあった。その後については諸説があるが、本宮山(ほんぐうさん)を経て、承和3年(836)に甲斐国の僧・賢安により現在地へ遷座したとの説が有力である。

修験道の始祖とされる役小角(634伝-701伝)は、伊豆大島へ配流された折に当社で修行した。

また、空海(弘法大師)が修行した伝承もあるように、多くの仏教者や修験者が修行を積んだ霊場であった。後白河法皇勅撰の「梁塵秘抄」には「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されている。

仁徳天皇が勅願所としたとされるため歴代皇族の崇敬が篤く、清寧・敏達・推古・孝徳・後奈良の六天皇の勅願所となったと社伝に謳われている。特に後奈良天皇は自筆の般若心経一巻(重要文化財)を奉納している。

源頼朝は平治の乱の後伊豆国に配流された際、当社に源氏再興を祈願した。この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北条政子との逢瀬の場にするなど関わりが深く、後に鎌倉幕府を開くと箱根とともに当社を「二所」として、幕府の最高の崇敬を示す「関八州鎮護」として多くの社領を寄進した。

南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有したとされるなど、この時期、当社が最盛期を迎えていたことがうかがわれる。

戦国時代、小田原の北条氏の篤い崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失した。

江戸時代に入ると山麓の阿多湊(または阿多美の郷)が湯治場として名高くなり、徳川家康はじめ多くの大名や文化人たちが訪れた。焼失していた当社は再建され、江戸幕府からは文禄3年伊豆国加増も葛見郡のうち二百石を、慶長14年には関ヶ原の戦いでの勝利の礼として百石を、それぞれ朱印領として寄進され、以後、代々の将軍からも同様に寄進を受けた。

明治維新の神仏分離令により寺を分離して伊豆山神社と称するまでは、天台宗や真言宗と関わりの深い神仏習合の神社であり、現在地へ遷座して以降は主に、高野山真言宗である般若院の別当寺が伊豆大権現と等しく祀られていた。

神仏分離後の大正3年(1914)1月13日、皇太子であった昭和天皇が当社に参拝、本殿脇に黒松一株を手植した。

大正7年、宮内省から金参万円を支給される。

昭和3年(1928)の昭和天皇御大典の際に国幣小社に列し、秩父、高松、久邇、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の寄進を受けた。

第二次世界大戦後に社格制度が廃止されて以降は別表神社とされ、宗教法人化された。 昭和55年(1980)9月12日に皇太孫であった浩宮徳仁親王が参拝した。

同年、童画家黒崎義介が拝殿の天井画390枚を奉納した。

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境内からの眺望。伊豆半島の東岸が見える。

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2016年2月27日 (土)

だるまおみくじ(大宮八幡宮)

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木製のダルマの下部をくりぬいて、おみくじをいれてある。

普通の糸のことが多いが、五色の紐で結んでいる。これで300円は良心的だな。

白ダルマと赤ダルマがあって、顔と福の字が3種類くらいあるので、つい選んでしまった。

おみくじの結果は中吉だった。最近のイベントに関係するテーマでは、

旅行(たびだち) ひかえて吉 利なし

転居(やうつり) さわりなし 急ぐな

だそうです。

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大宮八幡宮(杉並区)

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おおみやはちまんぐう。東京都杉並区大宮にある。

武蔵国三大宮の1つで「多摩の大宮」とも呼ばれる(他の2つは大宮氷川神社、秩父神社である)。

境内は15,000坪で都内で3番目の広さを持つ。

東京のほぼ中央に位置するため「東京のへそ」という異名も持つ。

子育て・安産に特に御利益があるとされ、遠方からも多数の参拝客が訪れる。

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八幡宮なので、ご祭神は八幡三神。

品陀和気命(ほむだわけのみこと)- 応神天皇、八幡神

帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと) - 仲哀天皇

息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后

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現在の社地一帯は大宮遺跡とされ、東京都内で初めて方形周溝墓が発掘された地としても知られており、そのため、当社の鎮座以前からこの一帯が聖なる地とされてきたと推測されてきた。

前九年の役のとき、この乱を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義は、奥州に向かう途中、武蔵国にて空に八条の白雲が棚引いているのを見たとされる。

これを源氏の白旗が翻ったかのように見た頼義は「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜びこれを吉兆とし、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣したという。

頼義は、乱を平定した後の康平6年(1063)に、八条の白雲を見た地に石清水八幡宮の分霊を祀り、神社を創建したとされる。同年、頼義は鎌倉でも石清水八幡宮の分霊を祀り、神社を鶴岡八幡宮を創建した

『先達交名』の貞治元年12月17日(1363年1月10日)の記録では、地元の阿佐ヶ谷氏は熊野権現の檀那であり、大宮八幡宮の住僧は先達だったと推定される。

天正19年(1591)に徳川家康から社領30石を寄進された。また、結城秀康の夫人である清涼院により、社殿が造営された。

江戸時代の敷地は境内を除いて60,000坪におよび、境内末社7社の他、2町離れた堀之内に別当寺の大宮寺があった。

明治維新後、35,000坪が押収された。

昭和56年(1981)、「大宮八幡神社」を「大宮八幡宮」に改称した。

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大宮天満宮。

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若宮八幡神社。

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大宮稲荷神社。

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北神門(赤門)

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御神水の「多摩乃大宮水」。

善福寺川に接し、かつては湧出していたとされるが、現在は自然には湧出していないため、ポンプで汲み上げているそうだ。

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大国魂神社

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おおくにたまじんじゃ。東京都府中市にある。

武蔵國総社。旧官幣小社。現在は神社本庁の別表神社。 東京五社の一社。六所宮とも呼ばれる。

ご祭神は武蔵国の総社として、当社創建当時の武蔵国一之宮から六之宮まで(通称:武州六社明神)を祀っている。

中殿に、大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ、主祭神で大国主命と同神とされる)、 御霊大神 (ごりょうおおかみ)。

さらに、国内諸神を祀る。

東殿

一之宮:小野大神 (小野神社、東京都多摩市)。

二之宮:小河大神(二宮神社、東京都あきる野市)

三之宮:氷川大神(氷川神社、埼玉県さいたま市大宮区)

西殿

四之宮:秩父大神(秩父神社、埼玉県秩父市番場町)

五之宮:金佐奈大神(金鑚神社、埼玉県児玉郡神川町)

六之宮:杉山大神(杉山神社、神奈川県横浜市緑区)

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社伝『府中六所社伝』に記された伝承によれば、景行天皇41年5月5日に大國魂大神がこの地に降臨し、それを郷民が祀った社が起源という。

その後、出雲臣の祖神である天穂日命の後裔が武蔵国造に任ぜられて、社の奉仕を行って以降、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝えられている。このときの社号は大國魂神社であった。

大化元年(645)の 大化の改新時、武蔵の国府が社有地内に置かれて社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する社となった。

国司が国内社の奉幣巡 拝・神事執行等の便により国内諸神を配祀し、武蔵総社の起源になった。このときに社号は武蔵総社となった。その後、武蔵国内の著名の神、六所(6社の神)を奉祀して、社号が武蔵総社六所宮と変わった。

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康平5年(1062)、前九年合戦平定の際に源頼義・義家父子が、欅の苗千本を寄進した(現在、国の天然記念物)。「馬場大門のケヤキ並木」の起源になった。

寿永元年(1182)、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、政子の安産の祈願が行われた。文治2年(1186)源頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営した。

貞永元年2月(1232)、執権北条泰時の代で社殿の修造が行われた。 天正18年(1590)8月に徳川家康が江戸へ入城してからは、 武蔵国の総社として、社領500石が寄進されて社殿及びその他の造営が行われた。

正保3年(1646)10月、類焼により社殿が焼失が、寛文7年(1667)、徳川家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。

明治元年(1868)、勅祭社に準ぜられた。明治4年(1872)、社号を大國魂神社に改称。

明治7年(1875)に県社、明治18年(1886)に官幣小社となった。

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2回目のお参りで、この日は初参りの家族連れの姿があった。

通常の参拝客も多く、人々の崇敬が厚い。

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2016年2月 7日 (日)

海神社

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わたつみじんじゃ。兵庫県神戸市垂水区宮本町にある。

式内社(名神大社)。旧官幣中社。

伊和神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。

「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。

古くは、あまじんじゃ・たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。

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ご祭紳は、海神三座として以下の3柱を主祭神とし、大日孁貴尊を配祀する。

上津綿津見神(うわつわたつみのかみ):海上=航海の神

中津綿津見神(なかつわたつみのかみ):海中=魚(漁業)の神

底津綿津見神(そこつわたつみのかみ):海底=海藻、塩の神

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社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりという。

『日本書紀』に記される広田神社・生田神社・長田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同じ。でも、そこには海神社は登場しない。

文献上の初出は、大同元年(806)の『新抄格勅符抄』にある播磨明石垂水神に神封戸10戸を寄進するという記述であるとのこと。

当所は海上交通の要地であることから。古くから海上鎮護の神として崇敬を受けてきた。

『延喜式神名帳』では「播磨国明石郡 海神社三座」と記載され、名神大社に列した。

中世以降、戦乱等のために社勢が衰えるが、天正11年(1587)に豊臣秀吉が祈祷料として垂水郷山内の山林を寄進、江戸時代にも歴代明石藩主が篤く崇敬し、毎年2月に参拝するのを通例としていた。

江戸時代の初頭より「日向大明神」と呼ばれていた。明治4年(1871)に国幣中社に列格した際に「海神社」に復称した。明治30年(1897)に官幣中社に昇格した。

社号について、「ワタツミ」の読みは本居宣長の説に基づき、明治4年(1871)に採用した。

『播磨国官幣中社海神社史』では「古例の通りアマもしくはタルミと読むべきである」としている。「タルミ」の読みは祭神の本来の名称が垂水神であったことによるもので、「アマ」は当社が海直(あまのあたい)の氏神であったことによる。

 

海神社へのお参りにより、近代社格制度の官幣中社へのお参りを終えることができた。

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阿波神社

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あわじんじゃ。徳島県鳴門市大麻町池谷にある。

旧県社。

ご祭紳は土御門天皇を祀っている。

土御門天皇は承久の乱後、承久3年(1221)に土佐国へ遷幸、貞応2年(1223)に阿波国に移り、約9年後の寛喜3年(1231)に崩御した。

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土御門天皇は父の後鳥羽天皇の譲位により4歳で即位したが、12年後、院政を敷いていた同上皇に退位を迫られ、異母弟の順徳天皇に上位し、上皇となった。

承久の乱の際、自身は関与せず処罰の対象にならなかったが、後鳥羽院が遠流になったのに自分が京にいるのは忍びないと言って、自ら申し出て土佐国に流された。のち、京に近い阿波国に移された。

このような人物であったので、鎌倉幕府は後鳥羽院、順徳上皇とは異なり、厚遇し、守護に宮殿を造営させた。

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土御門天皇が崩御されたし行在所は守護所に近い勝瑞(藍住町)に比定する説がある。

人々は土御門天皇火葬塚の北に通称「天皇さん」と呼ぶ土御門天皇社を奉祀した。『阿波志』には「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」とみえる。

その後、明治8年(1875)に丸山神社と改称(鳴門市史)。

昭和15年(1940)には紀元二千六百年記念行事として、社名を阿波神社に改め、火葬塚の北東に隣接する現在地に新たに社殿を造営した。県民挙げての奉賛と勤労祀仕によって昭和18年(1943)に竣工し、本殿座祭を斎行、県社に列した。

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八倉比売神社

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やくらひめじんじゃ。徳島県徳島市国府町矢野にある。

式内社(名神大社)、阿波国一宮の天石門別八倉比売神社の論社の1つ。旧県社。

鎮座する杉尾山自体がご神体である。

ご祭紳は、八倉比売命。天照大神の別名であるとしている。

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創建の年代は不詳。社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。

社殿裏手には五角形の磐座がある。一説には卑弥呼の墓であるといわれている。

はじめは杉尾山に連なる気延山の山頂にあったが、後に気延山南麓の杉尾山に鎮座した。安永2年(1773)に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年(孝安天皇15年)となる。

承和8年(841)に正五位下の神階を授けられ、元暦2年(1185)に最高位の正一位となった。

江戸時代には阿波国を治めた蜂須賀氏が当社を崇敬した。寛保年間(1741 - 1743)に杉尾大明神と称し、明治3年(1870)に現社名に改めた。

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山を横に歩いていくと、「天の真名井」と呼ばれる井戸を祀った大泉神社がある。

 

阿波国一宮の天石門別八倉比売神社の論社三社のお参りが済み、同時に南海道の一宮のお参りが済んだ。

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一宮神社(徳島市)

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いちのみやじんじゃ。徳島県徳島市一宮町にある。

式内社(名神大社)、阿波国一宮の天石門別八倉比売神社の論社の1つ。旧県社。

ご祭紳は、大宜都比売命、天石門別八倉比売命を祭神。

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元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町)が阿波国一宮であったが、参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一宮となったと伝えられる。

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鎮座地は徳島市の西部で、周辺は一宮町という地名である。東方にある山の頂上にはかつて小笠原氏の一宮城という城があり、現在は城跡がある。

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神社と道路を挟んで四国八十八箇所十三番札所の大日寺がある。神仏習合の時代には阿波一宮神社の別当寺となり、江戸時代には一宮神社が札所とされていたようだ。

明治の神仏分離によって阿波一宮の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を移して本尊とし、大日如来は脇仏とされた。

一宮神社では参拝社の姿はなかったが、大日寺には四国遍路の巡礼者が何組かお参りしていた。

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上一宮大粟神社

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かみいちのみやおおあわじんじゃ。徳島県名西郡神山町にある。

式内社(名神大社)。阿波国一宮の天石門別八倉比売神社の論社の1つ。旧郷社。

新四国曼荼羅霊場第七十三番札所。

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ご祭紳は、大宜都比売命 (おおげつひめのみこと) 、 またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)、あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)としている。

史料によっては同一の神でなく、天石門別八倉比売命・大粟比売命は配祀神であるとしている。

オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、オオゲツヒメノカミ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)の名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。

『古事記』では、国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて登場する。その後の神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれたとの記述がある。

社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。

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『延喜式神名帳』に記載される名神大社「阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社」の論社の一つである。

天石門別八倉比賣神社は神亀5年(728)に聖武天皇の勅願所となり、元暦2年(1185)には正一位の神階を授けられた。

平安時代には、現在の徳島市一宮町に当社の分祠として一宮神社が創建された。

明治3年(1870)、社名を「埴生女屋神社」と改められたが、氏子の請願により、明治28年(1895)に現在の上一宮大粟神社となった。

 

一宮巡拝のため、参拝した。徳島市から10kmほど奥の神山町という場所にあり、雪がちらつく寒い日で、参拝者の姿もなく、境内も無人であった。

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忌部神社

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いんべじんじゃ。徳島県徳島市二軒屋町、眉山の中腹にある。

式内社(名神大)の後継社。旧国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

ご祭神は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)。

天日鷲命は阿波忌部氏の祖神で、『古語拾遺』によれば天照大神の岩戸隠れの際に天太玉命に率いられて、榖(かじ)の木を植え、白和幣(しらにきて)(楮の繊維を織ったもの。木綿(ゆう))を作った神である。

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忌部神社にまつわる歴史は以下のとおりである。

式内社の忌部神社は旧山崎村(現 吉野川市)にあり、二宮もそちらであろう。当社は明治25年に新たに設置された後継社である。

『延喜式神名帳』に載る「阿波国麻殖郡 忌部神社」は名神大社として列していた。

中世以降、兵火などにより所在が不明となり、近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張していた。近隣他社の神職による横領、焼き払いにあって、一時途絶えていた。

旧山崎村村民の請願により、寛政13年(1801)に神職を罷免し、前神職の孫娘に養子をとり、神職を継がしめた。

明治4年(1871)に暫時「所在地不明」のまま国幣中社に列格し、翌5年に麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町)の村社忌部神社を式内忌部神社に決定した。

これに対して美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社(現 当社境外摂社御所神社)が式内忌部神社を主張し、翌々7年(1874)に改めて旧山崎村の忌部神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も論争が続いたため、同14年(1881)に五所神社を式内忌部神社に変更した。ところが、今度は旧山崎村側が大いに反発した。

結局、太政官による妥協策として名東郡富田浦町(現 徳島市)に新たな社地を定めるという通達を出し、同18年(1885)に眉山中腹の現在地を選定、そこに鎮座する郷社金刀比羅神社に仮遷座して五所神社を境外摂社とし、社殿竣工により同25年(1892)5月15日に現在地に遷座した。

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津峯神社

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つのみねじんじゃ。徳島県阿南市の津峰山山頂にある。

式内社。旧郷社。現在は神社本庁の別表神社。

ご祭神は、主祭神に賀志波比売命(かしはひめのみこと)、相殿に大山祇命を祀る。

開運延命・病気平瘉・海上安全の神として信仰されてきた。

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社伝では、神亀元年(724)、神託により、国家鎮護・延命長寿の神として賀志波比賣命を霊山・津峰山の山頂に祀ったのに始まると伝える。

延喜式神名帳には「阿波国那賀郡 賀志波比売神社」と記載されている。

津峰山には大小の洞窟があり、かつては断食参篭の行場であった。領主蜂須賀家が守護神として崇敬した。

昭和25年、神社本庁の別表神社に加列された。

ご祭紳の賀志波比売命を祀る賀志波比売神社が津峰山の麓(阿南市見能林町柏野)に存在し、現在は見能方八幡神社の境外社となっている。

社伝では、ここが賀志波比売命が最初に祀られた地であり、その後、賀志波比売命は人々の希望により津峰山山頂に遷座したが、元の鎮座地にも祠が残されたものと伝えられており、当社が津峯神社の本宮であるとしている。

後に近くの見能方八幡神社に合祀された。昭和27年(1952)、賀志波比売神社の社地の大部分が市に提供されて保育所が建設され、神社の社殿は敷地の北西隅に遷されていたが、昭和63年(1988)に保育所の移転に伴い元の境内が神社に返還され、平成2年(1990)に新社殿が造営されたという。

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津峯神社は麓から津峯スカイライン(有料:往復600円)を上がってきて、参道の石段を上るか、脇の参詣リフトで境内に上がる。

駐車場の脇から5つの岩窟に抜ける遊歩道がある。

境内から阿波の松島と言われている橘湾が一望できる。

この日の朝に鳴門で雪が降った。こちらでも降ったそうで、寒かったが、晴れて見晴らしがよくて幸運だった。

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2016年2月 6日 (土)

高津宮

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こうづぐう。大阪市中央区にある。

旧社格は府社。現在は神社本庁の別表神社。

ご祭神は難波高津宮に遷都した仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。

仁徳天皇といえば、この歌。

高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり

人家の炊煙の乏しさを見て課税を止め、庶民を救済した御仁政で知られている。浪速への遷都はのちの大阪隆昌の基盤を築いた。

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貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。明治5年に府社に列格した。

昭和20年(1945)3月の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が全て焼失し、昭和36年(1961)10月に再建された。

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高倉稲荷神社。

 

古典落語「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台として知られている。古くから大坂町人の文化の中心として賑わってきた。

境内の参集殿は「高津の富亭」と名づけられており、落語の寄席や文楽などが行われている。高津の富亭での寄席には五代目桂文枝一門が関わっており、文枝最後の口演「高津の富」が演じられたのも「高津の富亭」で開かれた「くろもん寄席」であった。文枝が亡くなった翌年の平成18年(2006)3月、境内に桂文枝の石碑が建立された。

大阪府立高津高等学校(大阪市天王寺区)の構内には、明治32年(1899)に大阪府が仁徳天皇1500年大祭を高津宮と難波神社で行った際に記念建立した「高津宮址」が現存するそうだ。

授与所で由緒書きのリーフレットとともに分けていただいた「高津さんの今昔」という手書きガリ版風の書き物が面白かった。B4サイズの裏表に江戸時代の様子をはじめ、びっしりと書き込まれていた。由緒をいろいろな形で説明するのは大事だ。

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阿倍野神社

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あべのじんじゃ。大阪市阿倍野区北畠にある。

建武中興十五社。旧別格官幣社。

ご祭神は、南朝方について各地を転戦した北畠顕家(きたばたけあきいえ)と、その父の親房(ちかふさ)を祀っている。

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境内の北畠顕家像。

北畠顕家は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将で、『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男である。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。

建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。

やがて任地に戻ったが、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。

以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。

明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。

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創建については。延元3年(1338)に顕家が足利方に敗れて亡くなったと伝承される地に、明治8年(1875年)、地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのに始まる。

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以下の建立までの経緯には当時の神社創建のやり取りが垣間見える。

明治11年(1878年)2月27日、東城兎幾雄・松本楚文ら15人が東成郡阿部野村にある北畠顕家の墓を修繕し、社殿を造営したいと願い出た。大阪府は、建物と境内の面積、創建後の維持の方法、神官の受け持ちを定め、社地と墓地を区分した詳細絵図を添えてもう一度願い出るようにと答えた。

請願者は400円を用意し、天王寺村内の土地の購入計画を立てた。再提出を受けた大阪府は、願いの通りにするよう請願書を添えて内務省に伺を出した。内務省は神社創建は請願通り、墓は民間に任せず官費で記念碑を建てるべきと判断し、それが9月21日に太政官政府の決定として下されたが、この決定から創建まではなお曲折があった。

大阪府は、北畠顕家の忠誠は楠木正成・新田義貞・名和長年・菊池武時らと同じだから、顕家を祭る神社にもしかるべき社格を定めるべきではないか、という内容の伺を同じ年の11月20日に内務省に出した。

内務省は3年後の明治14年(1881)11月16日に北畠顕家と北畠親房の二人を祭神とする別格官幣社の阿部野神社を阿部野村に創建する方針を固め、それが明治15年(1882)1月24日に太政官の正式決定となった。これにより、社格と名称が定まったが、墓所に記念碑をたてる案は取り止めになった。

一方、大阪で創建を進めていた有志は、参拝に便利な天王寺村字天下茶屋に神社を建てるつもりで寄付金を集めて土地の購入に着手していたので、阿部野村に建てる決定を知り、東城ら12人は、土地を寄付するので社殿建築を有志に任せてほしいと3月22日に大阪府知事建野郷三に申し入れた。

その後、天下茶屋の予定地は民家のそばで低湿だとわかり、近くの丘に変えることを有志のうちで議決し、6月2日に伊藤祐暉ら6名が大阪府知事に両地の図面を差し出した。大阪府も実地検分の上同意し、住吉郡住吉村藪山への変更を内務省に上申した。

翌明治16年(1883)、内務省は阿部野神社の宮司と東京で面談した上で、人民の願い通りにするのがよかろうと賛成し、3月7日に太政官が変更を決定した。

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摂社・末社に、御魂振之宮、勲之宮、祖霊社、旗上稲荷社、土宮、旗上芸能稲荷社がある。また、お百度参りの石が各所にあった。

境内西側に大きな鳥居があったが、門は閉まっていた。祭事のときに使うのだろう。上の稲荷社のところから境内に入れるようになっていた。

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四條畷神社

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しじょうなわてじんじゃ。大阪府四條畷市にある。

建武中興十五社。旧別格官幣社。

ご祭神は、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行(まさつら)を主祭神としている。

父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれている。

父の正成ともども明治維新の尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして明治9年(1876)に従三位、明治30年(1897)に従二位が追贈された。

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ご祭神は楠木正行(主祭神)のほか、以下の楠木一族の将士24柱を配祀している。

楠木正時、楠木正家、楠木正家子息 和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、和田紀六左衛門子息 大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息 金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息 河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部。

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河内国讃良郡南野村字雁屋の地に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。

明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公と呼ばれ崇敬の対照となった。

それに伴い、明治11年(1878)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。

同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、明治22年(1889)12月16日に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、明治23年(1890)に住吉平田神社の南隣の地に創建した。

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社殿。

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忠孝両全の像。父正成が子の正行に諭す場面。

忠孝両全は君主への忠義と両親への孝行のどちらも果たすことで、君主へ忠義を尽くすことと、両親へ孝行することは全く別のものだが、どちらも両立させるという意味である。

 

当社の創建以降、明治28年(1895)に浪速鉄道が大阪市中心部から四條畷駅まで開業したことで四條畷神社周辺は栄えたそうだ。

所在地の讃良郡甲可村(南野村ほか6ヶ村合併)では「四條畷」と付く施設が次第に増え、「四條畷」が甲可村の別称のようになっていき、昭和7年(1932)に甲可村は四條畷村に改称し、これが現市名にまで継承されている。

つまり、当社創建の5年後に鉄道駅が開業し、社号に因んで駅名がついたことで、地名も変わったということだ。

 

参拝に当たり、車で行ったら、大阪の市街地や商店街の細い道ばかりを走ることになった。ようやく着いたら駐車場がなくて、再度街中の一の鳥居の近くまで戻って、タイムスの駐車場に停めてから、てくてく参道を歩いてきた。じつは境内にも数台停められる駐車場があるのだけど、それは車のお祓いをする人のためのものだった。

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