« 尾崎神社 | トップページ | 手拭(尾山神社) »

2016年1月28日 (木)

尾山神社

160128_1440

おやまじんじゃ。金沢市にある。

旧別格官幣社。

ご祭神は加賀藩の藩祖・前田利家。

160128_1442

創建は新しい。経緯は以下のとおり。

慶長4年(1599)に前田利家が没すると、前田利長(利家の長男、加賀藩初代藩主)はその霊を祀ろうとしたが、公然と祀ることは憚られた。

そこで、まず越中国射水郡の式内社・物部神社(現 富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請し、金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに利家の霊を合祀、密かに祀った(この創建年は宇多須神社の社史と異なる)。

この時代だったら京都の石清水八幡宮など由緒ある八幡社から勧請することもできたかもしれないが、極秘に祀らなければならないという事情がこのような経緯を生んだのだろう。

創建以降江戸末期までの経緯は不明で、幕末になると藩の財政が厳しくなり、卯辰八幡社は荒廃が目立つようになったとのことだ。ちなみに祭祀料は藩士が禄高に応じて負担していたそうである。

明治時代になり、明治5年(1872)に教部省出仕の加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛、のちに尾山神社の社司になる)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をした。

旧藩臣が集まり、前田土佐守家の前田直信が代表になって、明治6年に金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することとなった(元の卯辰八幡社は、明治11年に宇多須神社となっている)。

明治6年(1873)3月、政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。

同月30日に、明治4年7月卯辰山天神社に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行なわれた。

当初、社格は郷社に列格されたが、翌年に県社に昇格した。 明治6年(1873)11月には前田家当主・前田斉泰の子の少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行なった。

次々と境内施設が整えられていくなか、明治8年(1875)11月に特徴的な神門が造立された。

明治12年(1879)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られた。同年9月、歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建された。

明治7年(1874)3月に石川県中教院が設置され、同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行なわれた。

明治35年(1902)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格した。7月3日-5日に昇格慶賀祭が行なわれた。

江戸時代のほぼ全期間を通じて利家の霊を祀ってきた卯辰八幡社を整備するのでなく、新たに神社を創立したのは、江戸末期から明治初期にかけて各地で藩祖を祀る神社を創立する動きがあったからだろうな。

160128_1441

この神門は長谷川準也・大塚志良により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助によって建てられた。重要文化財指定。

和漢洋の三洋式を混用した異色の門として知られている。第一層には戸室石(角閃安山岩)を用いている。

第三層は四面五彩のギヤマン張りで、もとは御神灯が点灯されていた。その放つ光は金沢の街を照らすだけでなく、遠く日本海を航行する船の目標たらしめたという。また、第三層目に設置された避雷針は日本最古のものである。

160128_1445

ギヤマンの色。

160128_1446

彫刻もまた素晴らしい。

160128_1437

境内摂社・金谷神社。歴代藩主と正室が祀られている。

160128_1438

境内の前田利家像。槍の又左である。

160128_1439

お松の方(芳春院)の像。

|

« 尾崎神社 | トップページ | 手拭(尾山神社) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/37949/63134621

この記事へのトラックバック一覧です: 尾山神社:

« 尾崎神社 | トップページ | 手拭(尾山神社) »