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2015年12月19日 (土)

志賀海神社

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しかうみじんじゃ。福岡市東区志賀島(しかのしま)にある。

式内社(名神大社)。旧官幣小社。現在は神社本庁の別表神社。全国の綿津見神社、海神社の総本社。

以下、Wikipediaの記述を適宜抜粋。

志賀島は古代氏族の阿曇(安曇)氏のゆかりの地としても知られる。

島名「志賀」の語源は、『筑前国風土記』逸文では神功皇后による新羅出征の際の伝承から当地を「近島(ちか)」と言い、のち「資珂島(しか)」と転訛したとされる。

本来の社名の呼称は「しかのわた」「しかのあま」「しかのうみ」「しかにいますわた」等の諸説があるという。

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ご祭神は、左殿・中殿・右殿に主祭神が各1柱、相殿神が各1柱が祀られている。主祭神の3柱は「綿津見三神(わたつみさんしん)」と総称される。

左殿:仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
左殿相殿:神功皇后

中殿:底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
中殿相殿:玉依姫命(たまよりひめのみこと)

右殿:表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
右殿相殿:応神天皇

祭神のワタツミ(海・綿津見・少童)三神は、「海 = ワタ・ワタノハラ」という古名に見えるように、海の神とされる。

記紀の神産みの段では、禊ぎにおいて住吉三神とともに生まれた神である。

古事記: 誕生した三神の底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を綿津見神と総称し、阿曇連(あずみのむらじ)らが祖神ともちいつく神なり

日本書紀:生めりし海神等を少童命と号すと述べたのち、誕生した三神の底津少童命・中津少童命・表津少童命について阿曇連らがいつきまつる神なり

ワタツミ三神は記紀においては阿曇氏(あずみうじ/あづみうじ、安曇氏・阿曇族・安曇族)の祖神または奉斎神とされている。

阿曇氏の「アズミ/アヅミ」という読みもまた「アマツミ(海津見)」の略とも見られる。この神を奉斎する阿曇氏は海人集団を管掌する伴造氏族であった。

『先代旧事本紀』では、同じく神産みの段で「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」と記されており、「筑紫斯香神(つくしのしかのかみ)」の名で志賀海神社が氏神に挙げられている。

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創建は不詳。社伝では、古くは志賀島の北側において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという。仲津宮・沖津宮は現在摂社となっている。

阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられ、古代の九州北部では海人を司る阿曇(安曇)氏が海上を支配したとされる。志賀島は海上交通の要衝で、海の中道を含めた一帯が阿曇氏の本拠地であり、志賀海神社は中心地であったと考えられている。

阿曇氏は日本全国で活動した。「しか」「あつみ」という地名を持つ長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島はその遺称地と伝えられる。

現在も志賀島の全域は神域とされ、社家も阿曇氏の後裔を称する。

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古い記録では「住吉大社司解」に天平3年(731)の日付で記載され、『新抄格勅符抄』では大同元年(806)時点で「阿曇神」に神封(寄進された封戸)として8戸があったとある。

国史によると、天安3年(859)に「志賀海神」の神階が従五位上に、元慶4年(880)に「賀津万神」(仲津宮に比定)が従五位下に昇叙されている。延長5年(927)の『延喜式』神名帳では、筑前国糟屋郡に「志加海神社三座 並名神大」と記載され、名神大社に列している。

平安・鎌倉期の史料は少ない。『小右記』に万寿3年(1026)に志賀海神社社司が入宋し、翌年に帰国したという記録がある。

鎌倉時代の元寇の際、志賀島は戦場となった。志賀海神社境内の『蒙古襲来絵詞』に「志賀島大明神」の名称が記載されている。

南北朝時代以降、武家の支配を強く受けた。応仁3年(1469)には少弐頼忠が対馬東月寺の住持に志賀島宮司職が安堵されており、その後は大内氏から庇護を受けた。

また、志賀海神社では明に渡航する前に航海の無事が祈願されていた。 近世には筑前国を治めた小早川氏・黒田氏の庇護を受けた。

慶長5年(1600)に入国した黒田長政により、神殿・拝殿・楼門等が造営されたという。また、文化14年(1817)の社領は50石であった。 明治5年(1872)、村社に列し、大正15年(1926)に官幣小社に昇格した。

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境内の鹿角堂では、1万本以上ともいわれる多くの鹿の角が奉納されている。また亀石として、神功皇后による三韓征伐の際、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れたという伝承に因んで後世奉納された霊石がある(写真上)。

参道の石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、南北朝時代の貞和3年(1347)の銘を持ち、完存では福岡県内最古で福岡県指定有形文化財に指定されている。

一の鳥居は、寛文10年(1670)の福岡藩3代藩主・黒田光之による造営。次の鳥居は元禄13年(1700)、海浜の鳥居は安永3年(1774)の造営。

志賀海神社には、かつて神宮寺の金剛山吉祥寺があった。創建は永享年間(1429-1441)といわれる。本来は天台宗であったが、のち禅宗に改めて博多承天寺末となった。寺内には文殊堂があり文殊信仰が盛んで、航海神としても信仰されたというが、明治元年(1868)の神仏分離で廃寺となった。

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参道入り口と拝殿の前に御潮井があった。この砂をお清めに左、右、左と撒く。

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