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2015年1月24日 (土)

新熊野神社

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いまくまのじんじゃ

ご祭紳は、伊弉諾尊(伊邪那岐命、いざなきのみこと)。

熊野神社、熊野若王子神社と併せて「京都三熊野」と呼ばれている。

創建は由緒書きによれば、永暦元年(1160)に後白河法皇の命による。

後白河天皇は1155年に即位し1158年に退位したが、退位後も引き続き院政を敷いた。そのときの住んだのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺で、当時は「法住寺殿」と呼ばれていた。

その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建された。その造営は法皇の命を受けた平清盛・重盛が当たった。

その後350年間、繁栄を極めたが、応仁の乱以降は度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になった。

江戸時代初期になると、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)が再建した。

現在の本殿は寛文13年(1663)に聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものである。

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平安時代末期は熊野信仰が盛んだった。法皇は生涯で34回熊野に参詣した。現在でも熊野詣では大変だが、当時の都人にとってはその比ではあるまい。

当社は熊野の新宮(熊野速玉大社)の別宮として創建され、永らく京の熊野信仰の中心地として栄えた。

「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、「紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野」、「紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野」という当時の都人の認識が、その由来となっているそうだ。周辺の地名は「今熊野」と表記されている。 

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鳥居左の社頭の「大樟」は当社創建の折、紀州熊野より運ばれた「上皇手植えの樟」と伝わる。 樹齢は900年と推定されている 。

影向とは神仏が現われるという意味だそうで、現在では「樟大権現」「樟龍弁財天」 としてに信仰されている。大権現は熊野の神の化身(仮の姿)、樟龍弁財天は弁財天(仏)の化身である。

 

前々から気になってはいたのだが、当社を含めて十六社で企画した京都十六社巡りの用紙があり、折りたたんで携帯し、巡拝しているひとがいた。たまたま社務所の前で話を聞いたら、四年がかりだそうである。

用紙がちょっと簡単すぎて、あれではスタンプラリーである。十六社あるのだから専用の御朱印帳を制作、頒布してもよいのにと思った。自分もそのうち満願成就となるが、御朱印帳に押印していただいている。

十六社巡りの押印のほうが手間がかからないため、御朱印帳組はときどき順番が後回しになるけど、それは構わない。

彼らもそのうち御朱印帳に押してもらうようになるのだろうか。

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