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2015年1月18日 (日)

江島神社

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えのしまじんじゃ

県社。神社本庁の別表神社。日本三大弁天の一つである。
 
ご祭神は、奥津宮に多紀理比賣命、中津宮に市寸島比賣命、辺津宮に田寸津比賣命の、いわゆる宗像三女神であり、江島大神と総称している。
 
創建は、社伝によれば、欽明天皇13年(552)に、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えている。
 
神仏習合時代には金亀山与願寺と称する寺となった。
 
創建については、『吾妻鏡』に、寿永元年(1182)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これを採ることもある。
 
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受け、江戸時代に弁才天信仰が盛んになると、多くの庶民が参詣した。
 
岩本坊、上ノ坊、下ノ坊の別当があり、それぞれ岩屋本宮(現在の奥津宮)、上之宮(現在の中津宮)、下之宮(現在の辺津宮)を管理した。とくに岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。
 
慶安2年(1649)に京都の仁和寺の末寺となってからは、岩本坊のみ院号の使用が認められ「岩本院」と称するようになった。
 
これら三坊は競って縁起を説いて回り、参詣者を集めた。のちに利権争いが起こったが、寛永17年(1640)、岩本院が幕府の朱印状を得て上ノ坊を吸収、後に下ノ坊も支配するようになり、全島の権益を握った。
 
明治元年(1868)の廃仏毀釈により三重塔の他多くの仏教施設や仏像などが破壊され、明治6年(1872)には、仏式を廃して神社となり江島神社へ改称し、県社に列せられた。現在のご祭紳はこのときに改められた。
 
このとき、僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿坊としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称したという。
 
上の写真のように、島の入り口から参道の緩やかな坂になっていて、両側に店が建ち並ぶ。鳥居の字が特殊なかたちをしている。
 
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混雑する狭い参道を抜けると石段。
 
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瑞心門。竜宮造の楼門である。
 
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辺津宮(へつみや)拝殿。
 
茅の輪があった。みんなくぐるだけで回ってなかったな。
 
ここの賽銭箱は箱でなく、巾着のかたちをした相模彫り。だから、参拝客が横に広がらず列になる。何も正面でお参りする必要もないのだけどな。
 
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奉安殿。八臂弁財天(はっぴべんざいてん)と、日本三大弁財天のひとつ裸弁財天の妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)が安置されている。
 
江島神社の御朱印は江島神社と江の島弁財天の二種類があった。ご神職がわざわざ訊いてくださり、片方だと初穂料は300円、両方だと600円である。両方お願いすると御朱印帳の見開き左右の頁にそれぞれ社寺名と押印、左右の頁の真中(折り目部分)に奉拝の文字、左頁の左端に参拝日を記すという、見開き1セット方式であった。
 
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中津宮。
 
奥津宮への案内を見つけられず、帰りの時間もあったので、駅に戻ることにした。
 
これで、日本三大弁財天のお参りを終えた。安芸の宮島(厳島神社)、近江(琵琶湖)の竹生島(宝厳寺・都久夫須麻神社)、江の島の弁財天である。しかし、江島神社でなく吉野の天河大弁財天社を入れる場合もある。
 
吉野は前回丹生川上神社三社がメインで、吉野神宮にお参りしたあとは奥に上がって行かなかったので、天河大弁財天社にもお参りしていない。ここは山奥までいくつか神社があるので、混雑する桜の時季を外して巡拝するのがよさそうだな。

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